『私たちは近くにいる』パウル・ツェラン「テネブレ」より 6日改題

 エーと、書かなきゃいけないとあせってる『エンジョイ』についての文章ぜんぜん進んでません。関連するような事件は起っているし、都知事選も近いのですが。そうだけど、見に行ったこれについてとりあえず思いついたことを書いておきます。

Port B ・エルフリーデ・イェリネク作『雲。家。』にしすがも創造舎
 http://tif.anj.or.jp/program/portb.html

 http://tif.anj.or.jp/pocket/portb/index.html

 イェリネクについてはこのブログでも取り上げました。*1正直言ってまったく予想外のノーベル賞受賞で少しだけ有名になりましたが、かねてよりずっと気になっていた『雲。家。』が上演されます、なぜ十年前にされないんだ、翻訳がというような愚痴はやめておきます。ともあれ、ミュラー以来のドイツ演劇追っかけにとっては夢のような話です。Port Bの公演『ニーチェ』もブログで取り上げています。*2改めて読み返してみると今年見て最高に面白かった、ダニエル・シュミットの『カンヌ映画通り』と『トスカの接吻』も取り上げるべきでしょうが大変なのでまた後で、しかし惜しい人ほど早く亡くなります。

 エントリータイトルを変えました、新しくタイトルにしたフレーズを、やっと思い出したからです。自分でも書いているのだから当然気づくべきでしたがここを読んでた時に思い出しました。*3(ここまで6日追記)ちなみに元のエントリータイトル*4は、戯曲中でも引用されるハイデガー、イェリネクの宿敵の極右ポピュリスト政治家ハイダーなどの名前に変えて、ドイツの近代初頭の知識人と権力を扱ったミュラーの戯曲『グントリングの生涯 プロイセンのフリードリッヒ レッシングの眠り夢叫び』のタイトルをパロッたものです*5。実は、オーストリアノーベル賞を取るとすればまず第一に名前があがったのはハントケです。ピンチョンはどうしてかと怒ったようですが。どうもこのあたりに原因がありそうです、記事を見るとイェリネクがちゃんと出てる(^_^;)。*6     
*7
ハントケと「ケルンテンのハイダー」というのはこのあたりを。*8

 で、肝心の上演ですが舞台装置はリンクで済ませます(^_^;)。舞台描写が下手なので…。

http://d.hatena.ne.jp/rossmann/20070302/

 付け加えるとただ一人出るパフォーマーの女性は、紗幕の後ろをしゃべりながら降りてきて、基本的に紗幕の前にほぼいます。*9そこはシートがしかれ、ぼろ服がいくつかぶら下がっています(キーファーっぽい)。イェリネクのテキストは、「私たちは〜」ではじまる台詞がほとんどです。基本は「家(故郷)にいること」と「大地」についてです。これがいろいろな形で「私たち」の本質、歴史、隣人、民族などにつながっていきます。いくつかこれはあれじゃないのかというのは推測できます。ヘルダーリンはかなりわかりやすかったし多かった。クライストはちょっと。フィヒテハイデッガー(有名なフライブルグ大学総長就任時の演説「ドイツ的大学の自己主張」)などは判別できたような…。特に後の二人は露骨にドイツナショナリズムからナチスへの過程を示しています。しゃべり方は最初は抑揚を抑えた調子です。紗幕のスクリーン上では、海外からの留学生の話。サンシャイン60ビルの映像、ビルについてここがかつてどんな場所だったか知っているかという街頭での質問などが映ります(ちなみに巣鴨プリズン)。いずれも最後はイェリネクのテキストの唱和で終わります。テキストの一部や、レオンハルト・シュマイザーによるドイツの記念碑についての考察なども映ります。

ドイツロマン主義とナチズム―遅れてきた国民 (講談社学術文庫)

ドイツロマン主義とナチズム―遅れてきた国民 (講談社学術文庫)

 興味深いのは、韓国からの留学生が字幕で「母国語」という言葉を使うところです。「母語」ではないのかという突っ込みがアフター・トークで佐伯隆幸さんからありました。隣にいるのがインドネシアや中国のような明白な多言語国家の人々ですから、わざとではないのかともいます、日本でもどちらも使えるでしょう…。

 パフォーマーは2度歌を歌います、リンク先では伏せられていますが、直接聞きましたが歌はニコの「ニーベルンゲン」、「ヴェルヴェット・アンダーグラウンド・アンド・ニコ」のニコです。*10こんな歌があったとは。歌はスピーカーから語られる、イェリネクのテクストを遮る/寄り添うように流れます。

ニコ―伝説の歌姫

ニコ―伝説の歌姫

マーブル・インデックス

マーブル・インデックス

 紗幕に背後がある以上、パフォーマーはまたその後ろに入ります、そしてここで語られるのがドイツ赤軍の一員で獄中で「自殺」した、グトリン・エンスリンの手紙を基にしたテキストです。有名な「鉛の時代」という言葉も出てきます。*11 彼女についてはゲルハルト・リヒターも同時期に扱っています。ではこの戯曲は、ドイツ赤軍派批判なのでしょうか?。

ゲルハルト・リヒター写真論/絵画論

ゲルハルト・リヒター写真論/絵画論

 それがどうもそうではない、少なくともリヒターのようにむしろそのようなイメージへの批判ではないでしょうか。エンスリン(ニコはほぼ同時代人で接点があったはずだけど調査中)は「家」にいることが出来なくなった女性です、そしてテキスト中では、「家にいること」は、何かから切り離されている(ヘルダーリンなら例えばギリシャハイデガーもだけど…)ものが選ばざるを得なかったものです、「私たち」は他人との関係で存在し、大地は定命のものがいる場所です。それは両義的です。エンスリンの言葉が紗幕の向こうで語られたことが重要です、彼女はこの戯曲で使用されるテクストの書き手の中で唯一の女性です、イェリネクを除けば。

 この上演でもっとも特徴的なことを述べれば、歌とイェリネクのテキスト以外の言葉は紗幕の映像の外に存在しません(途中で写される舞台のシートに書かれている文章はイェリネクのテキスト)。サンシャインシティについての言葉も留学生の喋りも、そこでの言葉は映像と対応しています。日本での上演でありながら紗幕一枚の上にしか日本はないのです。上記の対称構造を含め舞台上で演じられているのはわれわれがまだ知らない背景を持つイェリネクの戯曲であり、いわば劇中劇として紗幕上に「「私たちの」国」(サンシャインシティが第二次大戦)の記念碑であるような場所として)は映し出されているわけです、「私たち」が「家」の両義性に関わってしまっていることは別の歴史に属する戯曲の上演が教えることです。それゆえ、最後にパフォーマーの今度はきちんと語られた長いセリフと歌があるわけです。これは「ニーチェ」のラストと似た見事なシーンですが、意義は違うと思います。


トーテンアウベルク―屍「かばね」かさなる緑の山野

トーテンアウベルク―屍「かばね」かさなる緑の山野

 ハイデガーアーレントとおぼしき人物の出る戯曲です。

政治という虚構―ハイデガー芸術そして政治

政治という虚構―ハイデガー芸術そして政治

  またも最近亡くなりました

メタフラシス―ヘルダーリンの演劇 (ポイエーシス叢書)

メタフラシス―ヘルダーリンの演劇 (ポイエーシス叢書)

  積読です…。 

 というわけで?このようなことやっています。

映画『Nanking』へのネガティブ・キャンペーンおよび南京事件否定論に反対する日本のネットワーカーの共同声明

です。

http://homepage.mac.com/biogon_21/www/jnt_statement_jpn.html