「進歩」15日・23日追記/再追記

 私は以前『ホテル・ルワンダ』と関東大震災後の虐殺に関して論争的エントリーを書いたことがあります。

 http://d.hatena.ne.jp/NakanishiB/20060312/1142115440

 今回、慰安婦南京大虐殺に関して読んだエントリーとつながるのでもう一度エントリーを立てます。

 http://d.hatena.ne.jp/voleurknkn/20070314

 このエントリーですが、「朝日新聞的なもの」への個人的記憶や思想的経緯は「いかにも最近の若者にありそうな」というのが率直な感想です。そのように感じてしまうのが「他人」であり、そのような「他人」がいるのが現実の社会なのですがそれがわかっているのかどうか。肝心の事実へのお粗末なアプローチからして、前回のエントリーも今回のエントリーも「事実認識」は彼の立ち位置の問題でしかないように思えます。後半彼が付け加えている基本的立場、

中国や韓国をバッシングする「日本の若者たち」もまた僕にとっては他者である。

 これは私にはあまり適切に思えない、むしろ彼と「若者たち」の間には共通点が多いと思います。ここから、私がある程度自覚せざるを得ない、「日本の若者たち」と自らが同じ「われわれ」にもなっていることを本当には自覚していないのではないかと思えます、単に「日本人」国籍を持つ以上の意味でです。彼の「朝日的左」批判は自分自身へ批判的でないことを論拠にしていました。ですが、彼においては確固としてあるかのごとき扱いの「事実認識」とそれに色をつけないことに隠れて*1、自分自身は何一つ問われていません。後半のエントリーで主張するごとく、自らを「日本人」というカテゴリーに同定することをあくまで拒むのなら、その具体的な言説において実は無自覚に同定しているのではないかを真剣に考えるべきです。*2かつての論争にはそのような問題が含まれ問いかけられていたのです。私に比べればまだ若いにもかかわらず、一年たっても同じことを繰り返すのはちょっと驚きました。おそらく朝日的発想のころからまるで「進歩」がないのでしょう。思想のカテゴリーに入れる気にはなれないのであえて入れません。


 23日追記

 新しいエントリーが出たのですがどのように返答してよいかわからなかったのですが、やり取りが進んでいるようなのでもう少し補足を。まずはここのコメント欄を写します。

voleurknkn 『トラックバックをいただきありがとうございます。
>自らを「日本人」というカテゴリーに同定することをあくまで拒む
ぼくの言葉が足りなかったのだと思いますが、僕は「簡単に」日本人というカテゴリーへと自分を同定することが難しいと考えているだけで、歴史問題に関する責任を考えるためには、徹底して「自分は日本人である」ということから出発して考える必要があると考えています。だから、おなじ「他者」とはいっても、たとえば中国、韓国のかたと「日本の若者たち」は明らかにステータスはちがい、それゆえ取るべき態度も違います。そしてその「違い」は、自分がどれほどの強さを持って「日本人」を「われわれ」と呼ぶことができるのか、ということにかかると考えています。十全な「われわれ」を前提するということはすでに書いたようにできないし、またNakanishiBさんに勘違いされたようにそもそも「日本人」という「われわれ」など存在しないなどということもできない「自分はどこまで「われわれ」を主張できるのか」、この問いを自問しながらでしか僕は「歴史認識」というものに向かい合うことはできない、ということです。』(2007/03/15 08:27)

NakanishiB 『>voleurknknさん
 どうもけんか腰のエントリーに丁寧な返答ありがとうございます。確かにこの表現はvoleurknknさんの考え方の表現としては間違っていました、申し訳ありません。コメントで書かれたこと、「自分は日本人」でしかありえない、しかし「日本人」であることに無自覚に安住してはならないことは了解しました。ただ再度強調しておけば、あまりに「日本人」に「われわれ」は近いのです。自問することによって生じてしまう、「日本人」であることからの距離にかえって無自覚な(例えば「左」に対して立てられる)「われわれ」が滑り込むこともあります、(私は直接にはvoleurknknさんとはしていませんが)かつての議論で問われ続けたことはそれと関連するわけです。ですからここでも再リンクしたわけです。では失礼しました。』(2007/03/15 09:44)

 新しいエントリーです。

 http://d.hatena.ne.jp/voleurknkn/20070316#p1

 率直に言えば、私がわざわざ自分の一年前のエントリーを引っ張り出してきたのは、今回のvoleurknknさんの行動と、今度の行動には明らかに共通点があり、それは危険だよという意図があったわけです、コメントでも再度述べました。新しいエントリーではそこが一切触れられていないので返しようもなかったのですが、あちらのコメント欄の議論を踏まえていささか付け加えます。まず、語用論的リアリズムから見たときに私のコミュニケーションの意図は、2度同じことを書いたにもかかわらず端的に「失敗」しているわけです。これが何故なのかは置いておきましょう。ただ、私とvoleurknknさんが他者であるという前提と同時に、両者は同質であり、「われわれ」であるということも前提としてあるわけです、「語用論」などという言葉が通じること自体それを示しています。

 議論自体は以前のトラックバックからさらにリンクされているエントリーのコメント欄で尽きています。*3それでも付け加えれば、finalventさんの文章からvoleurknknさんが何を解釈したとしても、元の文章はそれ自体は固有です、それはvoleurknknさんの解釈枠からはみ出る内容や構造、効果を持っているのです。そしてその一部を私(や他の方々)が一年前に論じて批判したのです。voleurknknさんもエントリーを書いて自らの「コミットメント」を示してしまった、それなのにその後も一切この「コミットメント」を否認し続けていた。

 今回のエントリーにおいても、語用論的リアリズムについて語るvoleurknknさんは、無自覚に「コミットメント」なき純粋な言説空間を志向しているように私には思えます。それがありえないとがゆえに擬似的にそのような空間(公共性?)を確保しようとすることは当然選択肢の一つです、しかし、ネットの登場以来、いくたびも繰り返されてきた試みや構想が最新のものも含めどれも無残に崩壊した*4ことも確かです。このことは「何かを伝える」ことがひどく難しい現状を示しています。そしてそれは、「他者」を相手にしているからではなく、同質な「われわれ」の間(正確には「われわれ」同士の間)でコミュニケーションせざるを得ないことからこそ来ているのです。慰安婦問題などが、コミュニケーションを接続するという意味で「成功」させてしまうのはだからです。voleurknknさんのエントリーはその意味での接続に思えます。しかし、そのような形で「成功」させてはいけないわけです。一年前の議論と通底するものもそこにあります。ですから、こうなのです。

私にとって中国や韓国をバッシングする「日本の若者たち」もまた「われわれ」である

 このことに自覚的であるのがあえて「火中の栗を拾う」(これが典型的な「われわれ」の表現です)ことを表明した、voleurknknさんに(当然私にも)求められていると思います。

 余計ではありますが、イェリネクの『雲。家。』の上演に関するエントリーとこのエントリーが並ぶことになったのは偶然ですが、執拗に「私たちは」という主語で、ヘルダーリンハイデガー(その他)の言葉を結ぶ戯曲がこのような厄介さを踏まえていることはいうまでもありません。

インテンション―実践知の考察

インテンション―実践知の考察

 内容以上に書かれたきっかけから

デイヴィドソン  ?「言語」なんて存在するのだろうか シリーズ・哲学のエッセンス

デイヴィドソン ?「言語」なんて存在するのだろうか シリーズ・哲学のエッセンス

  とりあえず

  とりあえず

汝、気にすることなかれ―シューベルトの歌曲にちなむ死の小三部作 (ドイツ現代戯曲選30)

汝、気にすることなかれ―シューベルトの歌曲にちなむ死の小三部作 (ドイツ現代戯曲選30)

  とりあえずw、ツーか、「文学」ってのはこのレベルを言うんだ。

 23日再追記

 NakanishiBさんという方です、ずいぶんはやくご返事が来たので、とりあえず補足的に追記です

http://d.hatena.ne.jp/voleurknkn/20070323

 まず、voleurknknさんが検証的プロセスによる「事実認識」を重視なさるのは理解できますし、それは私も賛成です。しかし、昨年3/6のエントリーから。当時のvoleurknknさんへの反論を次にリンクします。このエントリーとそのコメント欄以上のことを言うことは出来ないのですが。

http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20060306#c

 それに対しての自らのエントリーでの反論に対して、あるコメントで
 

アウシュヴィッツは存在しない」という人に対し、「歴史修正主義」とレッテルを貼ることは、もしそれが正しいのだとしても、現実に意味をなすとは思えません。(後略)

 さらにこういう発言も。

ぼくはそもそもfinalvent氏と町山氏を対立させては考えていません。たんに、finalvent氏が「事実関係」について触れていることに対して、そういった「事実関係」を検討すること自体が正しくない、といった発想に違和感を持っているだけです。finalvent氏の意見のごく一部分を擁護しただけで町山氏のあの引用を批判していると思われてしまうのは残念です。
(中略)それに似た単純さで、finalvent氏を部分的にでも擁護すれば反町山にされてしまうし、その逆もそうなのかもしれません。

 これらはコメント欄の批判者方々の、finalventさんの議論がどのような具体的内容と効果を持つかの指摘に対して行われたものです。

 昨年3/10でも

逆に歴史的検証に触れるだけで逆上する人

最後に繰り返しますが、ぼくはfinalvent氏を無条件に擁護しているわけではありませんし、町山氏を批判したいわけでもありません。

 という記述があります。これらが、個人史的には3/14のエントリーで書かれた経緯があったことはわかりました。ですから、この意味でも「事実認識」へのこだわりは理解できます。ですが、一年前に問われたのは、3/23のエントリーから引用すれば、

具体的な証拠、証言、文書などを通して、「事実」に定位したやりとりが展開されるべきだ、という考えは以前とまったく変わっていません。

 これを自らが行い、コミットメントした言説に関しても行わなければならないということです。『理念としての「事実」を擬似的にでも設定し、そしてその「理念」としての「事実」の取り扱いを妥当にするような議論の手続きを作り上げ』る必要は私も賛成します。ですが、このような設定と手続きは「具体的な言説」に常に即しながら行われなければならないのです。しかし、voleurknknさんの「手続きの設定」はきわめて規範的であり、誰もがコミットメントなしに各言説の歴史や主体を無視して扱えることを無造作に擁護し続けているように思えます。しかし、なんども書いた通りこのような規範の設定は現在の多くの「われわれ」にとって自然である言説をきわめて有利にするわけです。そして今回の一連のエントリーを通して、voleurknknさんは自らの「自然」の一端を書いたわけです(それ自体はよいことですが)。だからこそ、1年前の議論ですでに問題点がすべて現れていたことが確認できるのです。voleurknknさんが「無自覚」なのは純粋な言説空間を作ろうとすることではなく、その試みがどう自らを裏切るかについてなのです。そして、自らが「左」に対して感じ対話から考えていることに言及しながら、それをきちんと対象化していないように思います。だからこそ私はあえて、反対命題を出したのです。それはもちろんこちらにも帰ってくることですし、この場面だけで終わる問題でもないと思います。

 なお、finalventさんの議論に関する私見と特に議論の端緒である、*5アウシュヴィッツ」への言及についての私見は最初に示した一年前のエントリーをお読みください。エントリーの最後で、voleurknknさんが歴史的な資料に触れていくうちに変わりえることを示唆していましたがそれはありえるし望ましいことでしょう、ただそれは言説を発することについての考え方が変わることでもありえればさらに幸いです、私は多分にこのエントリーを今の言説状況とそこでの理論のあり方への問題意識があって書きましたから。

*1:事実認識」を獲得しようとすることは出発点になるが、「事実認識」自体は出発点ではない

*2:あえて書けば、sk-44さんのほうがずっと考えていた

*3:http://d.hatena.ne.jp/voleurknkn/20060306#p2 http://d.hatena.ne.jp/voleurknkn/20060310#p1

*4:大体、この数年で小泉を取り扱うことをせずに構想を試みるのがはなから怠慢な現実逃避だったわけですが

*5:http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20060305#p1