あまりに久しぶりなのではてなのブログの書きかたを忘れている…

 クアトロガトス上演情報です。遅すぎますがとりあえず、詳細の案内に気づいたのが2時間くらい前だからもう少し早くあげられたはずですが…。行ける可能性のあった方はすいません<(_ _)>。

本日、以下の要項で講義と上演をおこないます。当日の案内で、申し訳ないです。

  第13回「知のワークショップ」 知と身体の演出法(3)主催:早稲田速記医療福祉専門学校 医療マネジメント科・医療経営情報科・診療情報管理専攻科

  ◎日時:2010年9月17日(金) 13:50〜16:15

◎場所:早稲田速記医療福祉専門学校6F視聴覚室豊島区高田3-11-17 JR他「高田馬場」駅下車徒歩2分 03-3208-8461 ◎入場無料

◎内容1)発表「スフインクス、オイディプスそしてソクラテスへ−哲学の誕生」井澤賢隆(早稲田速記医療福祉専門学校 医療マネジメント科専任教員) 14:00〜15:00・60分休憩15分

2)演劇「Ghost-Talking」CUATRO GATOS 講義・出演:清水唯史、田中紀子、宮下直紀スタッフ:湯田康、長井勇(水俣在住)15:15〜16:15・60分

http://web.me.com/cuatrogatos/CUATRO_GATOS/cg.html

http://d.hatena.ne.jp/NakanishiB/20080102/1199216126
 参考です

「リミニ・プロトコル『カール・マルクス:資本論、第一巻』」9日UP・10日修正/16日追記

 10日午後10時30分からNHK「芸術劇場」で日本での上映を放送します。

http://www.nhk.or.jp/art/current/drama.html#drama0710

http://festival-tokyo.jp/program/capital/

 一応演劇のブログであるこのブログですが、最近まったくレビューを書いておりません。ですが私はこの数年に来日したドイツ演劇に非常に影響を受けたわけです。ところがそれらは考えるてみると一つもテレビで放送されていない。パイマンの「リチャードⅡ世」も、カストルフの「終着駅アメリカ」も、タールハイマーの「エミーリア・ガロッティ」も、ハイナー・ミュラーの「アルトゥロ・ウイ」さえも。当然、リミニ・プロトコルもです。はっきり言って昨年の「ムネモパーク」やゲーテ・インスティテュートでビデオ上映された「ヴァレンシュタイン」に比べれば(新しいことをしようとして失敗したがゆえに)明白に見劣りしていると思います。でも、それでも日本のほかに行われいる上演に比べれば美的にも問題意識も傑出しています、というわけでの宣伝です。

 基本的に上演はドイツの歴史に沿っています、であるからこそ「資本論」であるわけです。出演者する人々は素人でおのおの体験をもとにしてしゃべります。「資本論」の内容自体は必要なことは上演内で説明されますので特に読んでる必要はありません。しかし、歴史的背景はちょっと必要かもしれません。おそらく最も傑出しているのは、この「素人」たちのそこらの俳優以上の存在感です。これはリミニ・プロトコルの演出の能力が最もすぐれているところです。心配なのは、NHKの撮影の方法ですね。どうも演劇とテレビドラマを勘違いしているとしか思えないわけです。キチんと考えられた上演においては舞台と人物の関係は演出ですでに作り上げられているのだからもうちょっと禁欲的に作ってほしい。昔、浅田彰チェルフィッチュの「目的地」をゴミとか言って話題になったけれど、それはテレビで見たわけであとで「三月の5日間」の再上演見て「洗練されたゴミ」といいなおしたそうだけど、やっぱりNHKのせいはあると思うんだけど。上記のようにリミニ・プロトコルは「素人」の出演者が下手な俳優よりはるかに存在感を持たせて舞台に立たせることができる。そこに彼らの問題意識を展開して上演する前提があるわけです。それが画面にキチンとでればいいのですが…。


 そういえばフェスティバル/トーキョーはこの秋もやるんですよね。どうもオリンピック招致がらみみたいだからこれも宣伝になるのがいやだけれど…。ちなみに秋もリミニは上演します。*1

水俣について・4日UP・8/17日追記

 与党と民主党の合意した、水俣病救済特別措置法案が衆議院を通過しました。これは参議院も通ってしまいそうです。しかし、これはやはり問題でしょう。CUATRO GATOSは水俣と東京で胎児性患者の皆さんの二回の上演に関わりましたました。一応非公式でも広報ブログとして今回の件について多少の情報をリンクしておきます。

http://d.hatena.ne.jp/umeten/20090630/p2
 はてなで速報くださったので

http://yummyseaweed.seesaa.net/
 上記エントリーで知りましたが、よく読んだら昨年の上演にいらした方でした。毎日いろいろ情報が載っています。ただ上演についてのエントリーで表記が「クワトロ・ガトス」になっちゃているんですけど…。
*1

http://www.nhk.or.jp/kaisetsu-blog/100/22671.html
 NHK「時論・公論」の解説です。とてもわかり安くまとまっています。

 できればきちんとしたエントリーを立てたいと思っていますが、いろいろありまして(^_^;)。

8・17追記/環境省原環境保健部長の解任を求める要請書・署名

夏のせいで毎年のようにぼーっとしてたらさっきumetenさんのブログを読んでいて気づきました(^_^;)。とりいそぎで。詳細はリンク先をご覧ください。18日までです…

水俣水俣病に心を寄せる皆様へのお願い】
http://www.greenaction-japan.org/internal/0908-shomei.pdf


http://d.hatena.ne.jp/umeten/20090810/p2


http://yummyseaweed.seesaa.net/article/125556011.html
 

蛇足16日UP

 先のいしけりあそびさんにあてたエントリーの蛇足です。
*1
 いくつかブクマがありましたが次のようなものがありました。

fuldagap 結局「そもそも今度のデモが対抗した相手である「在特会」の問題が」あるかどうかの議論だったというか、いしけりさんにとっては法務省とか裁判所に比べて気にならない相手だったということなんじゃないかなーとか 2009/07/03

 その後に上記のブクマへの返事として次のものがありました。

seijigakuto 外国人 id:fuldagapさん 在留特別許可の問題が本格化したのは20年前、在特会が活動しているのはここ数年。外国人当人にとっては、在特会がいなくなっても何も変わらず、行政か司法を動かさないと在特の状況は変わりませんので 2009/07/03

 私のfuldagapさんへの答えはいしけりあそびさんにとって気にならなくても問題であるということにつきます。そのような問題に対する態度こそがエントリーの主題でした。*2

 後者のブクマも基本的に同じですが、その返事として2番目の追記にこのエントリーの前提が何かはっきり書いたのですが、その後もずいぶんスターがついたようです。その後気づいたことをhotstaffさんへのコメントでも少し触れて、その後にコメントランに書いたので具体的にネット上の行為に付随してしまう起こってしまう問題の一例として提示します。

>時々過激過ぎてついていけないと思うことがあります。ただ、彼はそういう事件では、絶対に世間に支持や理解を求めることはしませんでした。
 それは理解しています。まさにこの後半の逆こそがいしけりあそびさんを支持する人たちの一部が求めることなのです。南京大虐殺否定論者議員どもを彼らが権力を持つがゆえに迎合しろとしかとれないことを(しかも無自覚に!)書きその一方で「在特会」は問題でないと嘯くような連中です。

 上の引用はhotstaffさんのコメント、その後が私のレスです。これについてのApemanさんとのやり取りを次に引用します。

Apeman 2009/07/08 09:29
>南京大虐殺否定論者議員どもを彼らが権力を持つがゆえに迎合しろとしかとれないことを(しかも無自覚に!)書きその一方で「在特会」は問題でないと嘯くような連中です

>政権与党の「反日サヨク団体」に関する認識の参考
(http://d.hatena.ne.jp/seijigakuto/20090702/1246532081)

としてリストアップされた自民党議員が赤池まさあき、いなば大和、稲田朋美戸井田とおる、林じゅん、まわたり龍治の6人ですが、ざっと調べた範囲でも

戸井田とおる:「日本の前途と歴史教育を考える議員の会」の「南京問題小委員会」委員長、映画『南京の真実』賛同人
稲田朋美:「伝統と創造の会」会長、「百人斬り」訴訟の原告代理人、李秀英さん名誉毀損訴訟の被告代理人、映画『南京の真実』賛同人
赤池まさあき:「伝統と創造の会」メンバー、映画『南京の真実』賛同人、NHKの「Japanデビュー」にクレームつけている議員の一人
林じゅん:「伝統と創造の会」メンバー

といった具合ですね。在特会的なものを生む土壌に根を張っている議員たちである、と言えるでしょう。

NakanishiB 2009/07/14 00:54
どうも裏トリありがとうございます。多少でも否定論に関心があればあまりにも有名な方々がいますからね。どう見ても党内では大きな力を持たない人が多いですね、大物になれば声高にはなりづらいし、舌禍があれば責任も取らなきゃいけないですし。無論与党で集団を作っているからあれこれ起こせるのも確かですが。それにネットからサンプリングすればこういう声がひっかり安くなるわけですし。そういえばかの田母神閣下も似たようなこといって自分を正当化していましたっけ。このようなアドバイスはもともとのリストアップの対象の「女子差別撤廃条約選択議定書」の批准の運動にむしろマイナスでしょうね。まあ、批准してないのできわめて厳密に解釈すればこれによって危機にさらされる当事者はまだいないのですが…。

>在特会的なものを生む土壌に根を張っている議員たちである
 そうですね、とりあえず「在特会的なもの」の批判は彼らに無茶な行動を自制させ、彼らの(党内や一般への)影響力に打撃を与えるという意味でも重要でしょう。一連の吹き上がりに関わっている議員に小泉の郵政選挙で受かった(復活できた)連中が多いのも特徴的です、ということは議員でなくなる人もいそうです。権力への服従と期待という傾向と現実が折り合わなくなる状況が近いときにどうするのでしょうか。民主党にそういう集団が形成されなないうちにきちんと事態を分析してできることがあるか考えるべきでしょうがなかなか困難そうです。もっとも彼や彼のブクマコメントにスターをつけた人々にはまったく興味がないことかもしれませんが。では、ありがとうございました。

 というわけでブクマやコメントランからのコピペのみで簡単なエントリーにしました。なかなかしっかりした文章を書く時間がなくて他の方々には申し訳ありません<(_ _)>。では。

いしけりあそびさんへ・4日に追記あり

id:mujinさんのところに書き込もうと思ったコメントが長くなりすぎたのでエントリーにしました。ネット上でこちらから議論をしたり書き込んだりしているのにこちらの都合でとめてしまっている皆様、また日記のタイトルのことなど私のほかの関係者の方申し訳ありません<(_ _)>。

http://d.hatena.ne.jp/mujin/20090702/p1

 この騒動についてはさすがに何か書くべきではないかと迷っていました(id:isikeriasobiさんのかつてのブログにラテンアメリカへの関心で何回かリンクしたて迷惑をかけたということもあります)。とりあえずmujinさんの

 ここ最近のid:isikeriasobiさんの迷走ぶり*1には目に余るものがあるんだけど、

周辺の生暖かい雰囲気がこの上なく何これきしょい的なんだけど、


 上記の認識には賛成するのですが、やはりこのようなことは基本的にisikeriasobiさんのは本人のネットでの行動にある原因を問題にすべきだと思っています。今ネット上で「周辺」にいる連中に自分が何をしているのかわかっていただくためにもそれしかないでしょう。この点で私はisikeriasobiさんに賛成であるわけです。

 この騒動がどこから始まったかというのは難しいのですがとりあえず以下のエントリーとそのブクマということになるでしょうか。

http://blog.goo.ne.jp/hanxiucao/e/fcae41aa017fa16ad78451234762d301

http://b.hatena.ne.jp/entry/http://blog.goo.ne.jp/hanxiucao/e/fcae41aa017fa16ad78451234762d301

 とりあえずこれ以前のこととそのほかのことは皆さん調べてくください。ここでのisikeriasobiさんのブクマはこうです。

isikeriasobi オレは日の丸に畏敬の念は示さないが、稚拙な表現で侮辱することはしない。外国人問題についてオレが考えつづけていることは日の丸をウンコにしてもぜったいに人には届かないから。/

 エントリーのある部分についての率直な批判として賛成するかどうかは別として問題はないと思います。その後のやり取りがこの「日の丸うんこ」を焦点として進んでいく(「祭り」といってもいいか)きっかけになったのは確かですが、それは他の参加者に比べて特に責任があるわけではありません。問題はどう振舞ってそれがどういう効果をもたらしたかです。とりあえず前提として、この「日の丸うんこ」のような行動がどのような意味を現実に持ちえるかについては私は一応了解しているつもりです。K416さんとの議論などは非常に私も反省させられました。(isikeriasobiさんのハイクは消されているがPledgeCrewさんのコメントで基本的に理解できます)
*1
*2

 しかし私はisikeriasobiさんの言説は常に問題を抱えていてそれが事態を悪化ささせていたと思います。それは一言で言えば非常にコンテクストセンシティブなネットの(まして、はてなブックマークの)空間に自ら足を踏み入れながら、isikeriasobiさんの対峙している「現実」に純粋に議論を限定できるかのように振舞ったことです。それが不可能なことは同時についているブクマの数々を見れば一目瞭然です。

http://b.hatena.ne.jp/entry/http://d.hatena.ne.jp/lever_building/20090618%23p1

 そしてそれはネット上で目の前にいる相手を実は軽視することになります。もちろんネットなんてもちろん「軽い言葉」が多いでしょうが、だからといってミソもクソも一緒くたの否定はやってはならないし、それをすれば自らの言葉も既にネットの言葉であることを忘れていることになる。ですから次のブクマは私は見過ごせない。

http://b.hatena.ne.jp/barcarola/20090620?with_favorites=1

barcarola id:kazenofukumama、勝手に書くなよw/カーンさんの街頭署名してヘラヘラした日の丸ウンコが来るかと思うとぞっとする。こう書くと"侵略性を認識していない"とくる。言葉と対話が軽蔑される場ではもう何も語りたくない。 2009/06/20

 ここでの問題は「言葉と対話が軽蔑される場では」という決め付けです。まあこれをネットからはてなのどの範囲でとってもあたっていなくはないと私も思う。しかし、これもまたブクマコメントであり、これを言ったものは自らのこの二重の位置に自覚的でなければなりません。しかし、それは果たされたでしょうか?。

http://h.hatena.ne.jp/isikeriasobi/9234263992235207171
 例えばisikeriasobiさんはここでネットで現実の問題が扱われたことにいくつか触れています。私が関わったものでは「トリアージ騒動」に触れていますが、私の記憶ではこの言葉を最初に持ちだしたfuku33さんも実体験者の疑問の指摘にはきちんと謝罪しています。その後の議論は延々と続きましたがそれは独自のテーマを持った相対的にであれ自律したやり取りです、その個々の発言はそれ自体で意味と各人の切実さを持っており、「忘れさられる」としても(調べれば出て来るんだが)単純には否定できないはずです。そしてそこにおけるここの振る舞いの累積は忘れられてはならないはずです。もちろん、指摘した方がその後の展開を疎ましく思ったかもしれませんが…。せめて消すなら黙って消すべきだったでしょう。


 あるいはflurryさんのハイクへの返事である次のハイクです。*3

http://h.hatena.ne.jp/isikeriasobi/9234070485305914167
 ここでネット上での言説としての効果に焦点を当てた問いに対してのisikeriasobiさんの答えは大変気になります。

ただ、ボクの発言なんて影響力ゼロですよ。webで一過性のネタにして終わりという人以外は。その人たちは、ホントの敵じゃないし、(後略)

 この後の話は興味深いのですが、(国籍法のことはここではおいておくとしても)「その人たち」は他の人にとっては(現に対峙しているという意味で)「ホントの敵」でwebが対峙している場であるということがあるのに気がつきませんか?。他の人たちは間違っている、もしくは意味のないことをしているとお考えでしょうか?。でも個人的なことで申し訳ありませんが、私はそういう人たちと付き合っているのです。そしてそれ以外にもネットのような場所で発言することをせざるを得ない(することを選んだ)人はやっぱりいるのです。それらの人(私もだけどさw)のことを考えればやはりこのような発言は認めるわけには行きません。このように返されて黙っているflurryさんはすごいですよ、あるいは。

 さらにそもそも今度のデモが対抗した相手である「在特会」の問題があります。彼らがネットにその足場の一つを置いている存在であること、ネットはそのリクルートや活躍の場であり、さらに彼らと潜在的に考え方を共有している人々も問題です。そのような人々との対峙こそ重要な問題だと思います。そもそも「アレな人」が自分の言説を利用しても大丈夫という態度は「対話」の重視に反しているのではないですか?。ネットは彼らや多くの人々が自分の「生きる場」の一つとして選んだのです、私やわずかではあれisikeriasobiさんもそうです。それらの言葉が現実のもっともハードな部分から離れているとしても、そこにある個人の声を否定することになるのがわからないのでしょうか?。


 ネットと社会や運動との関係は難しいし、短絡は危険です(橋下大阪府知事と彼の懲戒扇動発言の問題などそのややこしさの典型でしょう)。ですがこのようなポピュリズム的な政治の問題でネットが役割を果たしていないということはないでしょう。影響力ゼロというのは都合良すぎるでしょう。


 まあと書いてきて周りの方々は(特にトリアージ騒動や白燐弾騒動、ゲーム規制騒動にかかわった方々)は自分の声を自分で否定する帰結になったとしても何かを得たいのだと気づきました。いや、安易に「はてサ」とかいった言葉はなんで使うのに気をつけるべきだとすら思わなかったり、他人のエントリーを軽々しくデマとかブクマコメントしてガザのことにはさして興味もないようにしか見えない人だったりするけど。でも、何を得たいのかは真剣に考える必要がありそうですね。これは北田さんが「嗤う日本のナショナリズム」で指摘したネット的言説の特徴と比較すると興味深いです。単に彼らが何も気づいていないないだけでしょうか。

 閑話休題

 とりあえず、私の指摘は以上です。少なくともisikeriasobiさんは切迫した現実への懸念ゆえに発言したのは確かです。それが現場において正しかったのも確かです。でも、いかにうすっぺらいものであっても別の現場もあるわけです。発言する対象である現場と発言する場がきっちりと分かれると考えるのは間違っています。isikeriasobiさんにそう考えざるをえない理由があるのは了解しますが(周辺の連中の多くは論外)。ただ、isikeriasobiさんが自ら選んだネットでの活動を自ら撤退するに当たって何が問題だったのか。それについて書くときあまりにも単純すぎるし、自らの振る舞いをきちんと考察していないと思いました。4日をもってネットを撤退なさるそうなので急いで書きました。えらそうなことを延々書きましたが、私のネットでの振る舞いも特に最近はろくでもないし、おおよそ他人の役に立っているとも思えません。そういうやつの言葉ですが少しは気にしていただければ幸いです。ではお元気で。


 mujinさんへ

はてな辞めるのか…。こりゃ絶望的にひどいね。

 いえ私はそれほど絶望的とは思っていません。私は他人に絶望するほど立派に振舞っていません(^_^;)。まあ私はいしけりあそびさんのことをフィデル・カストロのような人と思うことにしました。
*4
そういう人だけどやっぱり支持しなければならないということです(つたえづらいニュアンスですが)。数年前伝記を読んだらカストロに本当に影響を与ええたアメリカ大統領はカーターだけだと書いてありました。うんまあ、アメリカ大統領を目指すのは無理だし目指したくないたないし、カーターのように愚直にはなれんし、オリバー・ストーンあたりを目指します(^_^;)。まことにわかりにくい例えをすいません。

 まあ、昔のユリイカの「レイナルド・アレナス」特集の座談会で、島田雅彦が能天気に文学万歳、カストロ独裁打倒みたいなことをしゃべっているのに対して、他の出席者の星野智幸浅田彰がきわめて慎重にしゃべっていたのを思い出したからです。ちなみに浅田彰はアレナスと同じくゲイらしいです。

カストロ

カストロ

嗤う日本の「ナショナリズム」 (NHKブックス)

嗤う日本の「ナショナリズム」 (NHKブックス)

コマンダンテ COMANDANTE [DVD]

コマンダンテ COMANDANTE [DVD]

追記
 どうこのあとから今週末にかけて忙しくなりそうで、できれば水俣について何か書きたい(少なくとも調べたい)ので、ご返事など遅れることが多いと思います。ご容赦ください<(_ _)>。

追記2
 ブクマでいしけりあそびさんの関心(最も重要なのは在特の人々の生活でありそれにつながる問題であること)の問題を持ち出されています。きちんと書く時間がなかったのわずかしか書けなかったけれど、みなさん「国籍法のことはここではおいておくとしても」とあるのを読まなかったのでしょうか?。何人かの議員がふきあがってさらに数人が迷走してしまったこと、おかげで変な決議がついてきたは忘れてはいけないでしょう。ネット内の議論の影響を問題にするのはこういう事例などぬ明らかにネットでのコミュニケーションは関わっているからで。「在特会」は一例です私はそれに限定していない(そもそもいしけりあそびさんは国籍法についてもきちんと書いている)。外国人の方々の生存の状況もネットで間接的には変わりうるのは明らかです。私が問うたのはそのような場であるネットの振る舞いの影響の問題なのです。それぐらいのことすらわかりませんか?一年たつと事件がおきたのも忘れてしまいますか…。もちろんわれわれはあのような騒動を起こすこと許してしまったという点でまるでだめだったのですが。以上エントリーの前提の確認でした。

終焉の中のソ連史 (朝日選書)

終焉の中のソ連史 (朝日選書)

 私がカストロに、ひいてはラテンアメリカに本気で関心を持ったのはこの本の中のエピソードが大きなきっかけの一つです。スペイン語もまだ憶えていない程度の本気ですが…。

追記4日
 コメントランで鶏さんが私が取り上げたid:flurryさんのTwitterを紹介くださいました、私の返事はコメント欄で書きました。その後、id:flurryさんがいしけりあそびさんについて触れたTwitterのまとめを公開してくださいました。左翼とリベラルの関係とかいしけりあそびさんの意図とかなど賛成できないところですが、ご主張は了解しました。わざわざありがとうございます。一つ気になったのは

あはは。>『お金もうけとラテンが好きなサヨクですが「はてサ」ではありません』 軽やかなレッテル貼りだなあ。

 というところです。これはいしけりあそびさん本人の文章の引用でしょうか?。似たようなコメントがいしけりあそびさんのお知り合いのブクマにあった覚えがあるので。本人が書いてたのならさすがにちょっと…。これでは私にはどちらかわからないのでできれば教えてください。

 もうひとつ鶏さんが

むしろ、普通の人がそこまで参加するのは無理と認めていた点で、観客席にいる人を揶揄しているはてなの論客よりもずっと誠実だったと思います。

 これはもしかしてmujinさんがあはすさんに対してしたコメントで触れられいるものでしょうか?。
http://d.hatena.ne.jp/mujin/20090703/p1#c1246676200
 もしそうだとしたらどの辺が揶揄なのかお聞きしたいのですが…。

 全くの余談ですが同じコメントランの別の人だけど

エントリー内容に共感して納得するという事は少なく、その理屈や説得力で納得するか否かを決めていますので

 とか述べる人が、論旨にかなり無理があると少し考えれば誰でもわかる「心の狭い学究」のポジショントークエントリーを真に受けているのを思い出すと笑っちゃいます。

*1:http://d.hatena.ne.jp/K416/20090626/1246027867

*2:http://d.hatena.ne.jp/K416/20090626/1246018641

*3:http://h.hatena.ne.jp/flurry/9258646768072227424

*4:イメージからブクマで「ベネズエラに 石油なければ ただの人」といわれたチャベスはやめました

]「水俣から伝える」展示/授業/演劇

 どうも、久しぶりに更新です。それもこれまで三回連続のネタでなくです(^_^;)。
とはいえ宣伝ですが。一週間後と急なのですがCUATORO GATOSは一年ぶりの上演をします。前回は宣伝できなかったので事実上2年ぶりの上演です。基本的なコンセプトはおととし水俣で行った上演の東京での再演です*1。同じく水俣の胎児性水俣病患者の支援グループ〈ほっとはうす〉の企画の一部として上演いたします。参加は基本的に無料ですのでぜひお越しください。以下情報を貼り付けます。

   水俣から伝える」展示/授業/演劇


   2008年11月29日(土) 15:00〜19:15(19:15から交流会あり)無料

 人類史上、最初で最大の生命破壊・環境破壊である水俣病事件は、「公式確認」から52年を経て、「終わり」を強いる諸力に直面しています。事件を歴史・記憶から忘却・抹殺しようとする諸力です。しかし、当然のことながら、事件は終わっていません。それどころか、いまなお被害と加害(とその相互交換性)の全容は(法的、社会的、医科学的、哲学的に)解明されておらず、被害(者)への補償はあまりにも不十分なままです。そして何よりも、私たちは「水俣病とは何か」という問いに対する答えをもっていないし、そもそも問いを問う入射角さえ見定められずにいます。
 ありとあらゆるものを商品化の対象とする、徹底した市場主義としての後期資本主義社会においては、生命・身体も露骨に商品となっています。また、環境破壊の進行は人間社会の存続を根底から脅かしています。これらは水俣病事件の現在的展開の一側面と言ってよいでしょう。つまり、水俣病事件は終わっておらず、問題はさらに複雑化、混沌化し、私たちの生きる生そのものとなって、社会を全域的に覆っているということです。

 胎児性水俣病患者は、水俣病事件史を背負いながら「いま・ここ」の生を生きる存在であり、水俣病や「いのち(の連綿性)」に対する不断の問い返しの必要性を私たちに訴えかけてくる存在です。彼女彼らは表象され、ある意味の秩序へと回収されることが決してないような、常にすでに余剰や残りであるような存在です。(だから、つまりは、こうした言表自体がすでに常に破綻へと追い込まれるのだろうということ)。

 だからこそ、いままさに、またしても、あるいは新たにここから、私たちは胎児性患者の訴えかけに応えていく必要性を強く感じずにはいられません。そうして「終わり」を強いる諸力に抗いながら、胎児性患者とともに(「ともに」がどのように可能なのかを考えながら)水俣病事件やいのちへの問いを問い始めなければならないと感じます。

///////////////////
 以上のような問題意識にもとづき、CUATRO GATOSは、胎児性水俣病患者の自立生活・活動の場である〈ほっとはうす〉、倫理学・哲学の観点から水俣病事件を研究している〈中央大学法学部細谷ゼミ〉と協働して、今回の『水俣から伝える 展示/授業/演劇』を企画しました。〈ほっとはうす〉とCUATRO GATOSは「公式確認」50年の節目である2006年、水俣にて最初の合同公演をおこなってから、2年ぶり2回目の公演となります。そして今後も引き続き、水俣「からの」表現の可能性を探っていきます。
///////////////////
 つきましては、下記情報をご参照のうえ、ご多忙の折とは存じますが、ぜひご来場くださいますよう、心よりお待ち申し上げております。


◎プログラム ※各プログラムの開始時間はおおよその目安であることをあらかじめご了承ください。


●15:00〜 ほっとはうす「水俣病を宝物として伝えるプログラム」

〈ほっとはうす〉は水俣病患者の自立生活や生きがいを求め、水俣病患者の一人ひとりのニーズに即した、総合的支援のネットワークを構築しています。その重要な活動の一つとして、水俣からの情報発信があります。今回はメンバーのほぼ全員が上京し、「きぼう 未来 水俣」を語ります。
*〈ほっとはうす〉とは=胎児性水俣病患者の人たちが長年積み上げてきた思い、「社会とつながり働いて生きる」ことを実現する場であり、もっとも大切な活動としては、水俣病を伝えるプログラムがある。水俣の中心街に喫茶コーナーを設け、気楽に立ち寄れる場所として地域に開放している。障がいをもつ人の、あらゆる人権の確立を訴える。「施設ではなく、地域で生きる」は、重要なコンセプトである。
///

●17:30〜「詩朗読」
///


●18:30〜 ほっとはうす+CUATRO GATOS第2回演劇公演

『rest/labor 2 胎児性患者からのメッセージ 今、希望のあるところから』
原作:加藤タケ子 演出:清水唯史 コーディネート:細谷孝
出演:ほっとはうす=加賀田清子、金子雄二、長井勇、永本賢二、松永幸一郎、ほか
   CUATRO GATOS=田中紀子、宮下直紀、中西B、ほか
スタッフ:清水基、葛巻欣久、真島大栄(BLACK STAGE)


◎会場 地球環境パートナーシッププラザ:GEIC
表参道駅東京メトロ銀座線、千代田線、半蔵門線)から徒歩5分
*渋谷駅(JR、東急、京王井の頭線東京メトロ)から徒歩10分
東京都渋谷区神宮前5-53-70国連大学ビル1F
TEL:03-3407-8107

 http://www.geic.or.jp/geic/


 なお、お問い合わせは演劇グループCUATORO GATOSでも承っています。

 http://www.cuatro-gatos.com/theater/


 

映画芸術 2008年 11月号 [雑誌]

映画芸術 2008年 11月号 [雑誌]

 水俣を長年撮ってこられ、今年亡くなられたドキュメンタリー監督土本典昭さんのとても充実した追悼特集が組まれています。ぜひご参照ください。

 ようやくちゃんとした情報が公開できるので、急いで貼り付けてエントリーにしました。中身が薄くてすいません(^_^;)。なお雑誌のほうは来月以降になります申し訳ありません。
 あと、これは私個人の私見ですが、なお最近、ブライアン・デ・パルマの「リダクテッド」を見たのですが、あの作品が成功しているかどうかはともかくとして、基調の部分で非常に近い問題意識で作られているのではないかと思いました。それは映画を見ておられたら、このエントリーの注にリンクされた前回の上演の報告を読んでいただければわかるかと思います。ドキュメンタリーの上演とフィクション(フェイクドキュメンタリーだけど)という違いにもかかわらずある問題だと思いました。ま、500分の1の予算でやってますが。

 さらにまた追加で情報を出せれば出すつもりです。

稲葉振一郎氏の議論を読むときに(18日・19日修正・追記)

 どうも、ここまで三つ連続で稲葉さんを対象にしたエントリーを書いてしまったいうのはブログの開設の趣旨からはるかに飛んでしまっています。このこと自体、私がいかに現在ダメダメであるかという証拠ではありますすが…。ここはとりあえずブクマコメントをいただいたのでちょっとだけまとめます。コメントもしました。*1
*2


 いきなりこういうことを書くのもなんですが、私の稲葉さんへの不満は議論の内容(そこで違いがあるのは当然として)というよりも端的にネット上の議論でのその振る舞いに信頼が置けないところにあります。その具体的な例については直前のエントリーで取り上げました。個人的に思い入れがあるテーマでもありますので、まずはそれを読んでください。


http://d.hatena.ne.jp/NakanishiB/20080718/1216332197

 ↑のエントリーの後半部です。塩川さんの「和田春樹論」の援用は論旨を読み違えており間違っているのではないか問いかけたわけです。このエントリーはいくつものネタが重なっていて、読み取りづらくて申し訳ないですが。きちんと議論を行ううえで基礎になるような部分で振る舞いに問題があるからこそ、その後も不信を持ってしまうのです。

 
 これに対して応答がないままに、次のようなエントリーを出したり。

http://d.hatena.ne.jp/shinichiroinaba/20080723/p1(18日追記)

 また別の論争的文脈で塩川さんの本を「これを読め」と紹介するのはちょっと困ったことだと思うわけです。さらにブクマへの返答のコメントに対してさらに問われたので最近の論争についての各所での断片的なコメントのもとにどのような認識を元にしているかをここで書くわけです。*3


 ともあれ稲葉さんが一連のGDP論争でそれなりに実質的な議論が行われるようにしています。興味深いフォローも行っているのは確かです。それはいろいろ参考になります。
 実は稲葉さんについて問題なのは少なくとも自分の間違いは自ら認めることができるのに特定の他人の間違いは認めることができないことです。これどういうことかというと、例としてGDP論争の経緯を見てみると、mojimoji氏のエントリーに山形浩生氏が批判したのが重大な転機ですが、明らかに山形氏の間違いである部分を決して認めようとしない。これでは、mojimoji氏が怒るのは当たり前でしょう。皮肉なことにこの議論自体は他の参加者によって興味深いものになっていき、「ずらされ、隠されてしまった論点が今後浮上する可能性もあるでしょう。」という発言は実現したわけです。
 その意味で稲葉さんは有言実行したとは言えるかもしれません。しかし、それらの参加者は山形氏ではありませんし誤読を誤読と認めても(あるいは端的に無視しても)特に変わらず、むしろ議論を発展させようとするなら障害になったでしょう今回は運がよかっただけでしょう。
*4
*5

 最初に取り上げた塩川さんの引用の問題も「強引な弁護」がもたらしたともいえます、これは前々回のエントリーで取り上げたときも一緒です。ただ特に今回は露骨に現れたように思います。少なくとも、今後はこのような議論における問題が自分に関してではなく身内に絡んだときに現れることの認識は稲葉さんの文章を読むときには必要ではないかと思います。過去の例はチェックしませんがとりあえず最近のことを書きました。「まともな議論」もしているからなおそらこれらは問題になるわけです。

http://d.hatena.ne.jp/PledgeCrew/20080906
 このような断定とは実は現象として近く見えても根は違うとも思うのですが一応リンクしておきます。ただそう見られても仕方ないという例は複数あったのです。そしてその一つにいついて私ははっきり問うたのです。やはりこういうことは止めてほしいと思います

 
 ここまでが本論で後はおまけです。



 (遠因はともあれ)どちらかといえば自分のことで暴走してしまったと見える例についてちょっと検討します(批判対象へのリンクがないことが暴発とみなす理由の一つです)。少しこれまた注意すべきことがあるかと思うので。

 http://d.hatena.ne.jp/shinichiroinaba/20080908/p1

 http://d.hatena.ne.jp/shinichiroinaba/20080903/p3

 これらについては、例えば、山口定氏を出しておきながらナチズムと保守派の相互依存関係に触れないというのはいくらなんでも困ったものであるわけです。それこそ暴発であるわけです(あるいは「競争秩序のポリティクス」を後で出すなら、ナチスドイツにおいて所有権が実はきっちり保護されていたということは当然知っているでしょう)。ただそういう問題はともかく、かなり興味深い展開も含まれています。後のエントリーになると

 それは実際には立憲民主主義の枠を外れた何らかの実力行使――たぶんそれを「市民的抵抗」と呼ぶことはできなくはなかろうが――になるのではないか。このような予想が、おそらくsvnseeds氏には何となく念頭に浮かんでのではなかろうか。まあぼくの場合はぶっちゃけそうである。

*6

 この辺りについては、遡ると市野川容孝氏との対立という形でも見出せます。これはですからかなり理論的なところから来ているはずなのですが。とはいえさらにこのような現実的反省もします。*7

 まあしかしこれは冷静に考えれば多分に「いらぬお世話」であり邪推だよね。だいたいそういう無力な左翼の暴発があったところで、大した被害は出ないはずだし、それにちゃんとした左翼の人は、「立ち上がる」前に必要なそういう足場固めに日々努力しているはずで、

*8


 また、次のような発言もあります。

 まあこのようにラディカル左翼を位置づける立場は、なまじの右翼の「左翼死ね!」よりもある意味はるかに失礼な立場なのではありますが。たとえは悪いですが、ハイエナの獲物を横取りして、食べ残しを放り投げるライオンみたいな感じで。

 *9

 私なんぞは、「批判・批評」でいいじゃないか、前回取り上げたベネズエラにおいても良かれ悪しかれそれ以上のものとしては「経済的には」導入されていないし、導入のしようがないのですからと思うのです(政治的には前回参照、直接行動の問題ならまるで逆の例がボリビアで進行中 http://mainichi.jp/select/world/news/20080917k0000m030053000c.html )。
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*13

 ではこのような違いはどこから来るかといえば、稲葉さんは私よりある意味で「左翼的」なのではないかということです。それはいやみな言い方をすれば本質(根本)的なものへの過度の重視です。景気(マクロ経済)という審級への非常な重視と独特のこだわりも、「便所の落書き」への無関心もです。あるいは、トランス・セクシャルの人に対するポルポト派の犯罪をめぐる議論に現れた鈍さも含めてです(マルクス主義フェミニズムの緊張や日本の左翼史を思い出せば)。そのような「歴史の法則」への実存的こだわりはまさに(特に数十年前の日本における)「左翼的」と言えるかもしれません。ローザ・ルクセンブルグに対する批判と相対的なレーニンの評価もその現われかもしれません。まあ頻繁に出てくるマルクス主義へのこだわりから思ったことでしかないとも言えますが。なお私はマルクス主義はレイコフの言う意味で保守のモラルに親和的な部分が強いと思っています。ですから、私には違和感がはっきりあるわけです。ただ、それほど単純でもではないので実はこの「保守的」な面に本人が気づいていないわけではないのですが。
*14 
 *15

 このような推測はとりあえずおいておきますが。稲葉さんの理論からくる問題を、そして「思想の機能はエコロジカルなファクターに左右されるもの」という点を稲葉さんの内在的な問題に踏み込んで、社会に内在している問題の徴候として考えるということは有意義かと思います。ただこのことは最初に示した問題を認識した後に考えるべきことでしょう。そこをきっちり分けて何か具体的に書くのは私の現在の状態ではどうにも難しいのですが。

 追記・18.19日

 上記に追記したエントリー忘れていたので少し詳しく書きますが。引用すると*16

 個人的には、当面のところ愚直な原則論者の道を歩みたいものだ、と私自身は考えてはおります。要は「サバルタンは語ることができるか」というたぐいのお話にはもう飽き飽きした、ということです。(もちろん、「具体的な事実に徹すること」イコール「サバルタンにこだわること」などではないのですが。)

 そうだとしても、「技術論」が展開される環境があるはずです。もちろんブログなぞとは別にきちんと学術的な場があります。しかし、稲葉さんはそれをある程度ブログ上でやろうとしている、「技術論」が行える(少なくともふりをしたい)のならおのずと基本方針が必要でしょう。そして稲葉さんは明らかにその基本方針まで考えている。だとしたらそのような立場から出してしまう仕切りは自らの考え方に逆らって行われるべきです。そうしなければ「技術論」が展開される環境が破壊されるだけでしょう。松尾匡氏の書評のときは松尾氏の対応でなんとかスムーズに議論が流れました。皮肉なことに今回は山形氏が導入以外では無視されることで議論が進んだのではないでしょうか。「開き直り的ラディカリズム」はどういう立場にも現れるのですから。まさか導入時に「また〜か」メソッドが彼に適用されるようになることを望んでいるわけではないと思います(アイン・ランドのようにw)。まあ、こういう「相手のためを思って」論法は書いていて恥ずかしいのですが。何らかのコミュニケーションを期待しており、副産物でしかありえない成果に期待しても本当にまったく失敗することに意義があるという立場はとっておられないと思うので、このまま議論の環境の破壊を繰り返すなら「まったくの失敗」ばかりになる可能性を指摘しておきたいです。
*17

 ここからはまたおまけです。まるで話がずれますが、

http://ameblo.jp/hiromiyasuhara/entry-10137812924.html
 ここに引用されている東浩紀氏のちょっとあきれるような無茶苦茶さと、稲葉さんの振る舞いも似てはいるからにはもしかしたら理論的な類似が関連しているのかなと。決して二人とも完全に居直っているわけでもないのも共通していますし。

 以下は19日に追記

さらに、斎藤環氏の「博士の奇妙な思春期」(2003)のなかにもやや似た表現があります。

さて、私自身のことを言うなら多少は心情左翼的なところがある人間であることは否定しない。〜中略〜。かといって、南京大虐殺が史実であるかどうかには、いまだ懐疑的であるし、保安処分問題をタブー視するほどかたくなでもない。p119

 実のところこの章は論争的な文脈で書かれており、この表現はその中で自らの立ち位置の設定として出てきたものです。その論点においては私自身は斎藤氏の主張に説得力があると思うわけです。しかし、論争の文脈からすれば自らの中立的として位置づけを行った部分にこれが出るの大変問題です。普通の人々には違和のある「イデオロギー」的なものの象徴として「南京大虐殺」が選ばれているからです。そこから一般のコミニュケーションの場で「忌避されるもの言説」が(無自覚であれ)認識が存在しており、それに無批判したがってしまうということこがメディアや社会について専門家として考えている人の文章の中に現れてしまったことは、少し前とはいえ記しておくべきでしょう。きちんとした考察はとりあえず今はしません。はじめのテーマからだいぶ変わってしまいましたすいません。*18


すべての夢を終える夢

すべての夢を終える夢

 タイトルはこの本の原題、「どれくらいドイツ的か?」から思いついたので。作者はドイツ系のユダヤ人です。