「リミニ・プロトコル『カール・マルクス:資本論、第一巻』」9日UP・10日修正/16日追記

 10日午後10時30分からNHK「芸術劇場」で日本での上映を放送します。

http://www.nhk.or.jp/art/current/drama.html#drama0710

http://festival-tokyo.jp/program/capital/

 一応演劇のブログであるこのブログですが、最近まったくレビューを書いておりません。ですが私はこの数年に来日したドイツ演劇に非常に影響を受けたわけです。ところがそれらは考えるてみると一つもテレビで放送されていない。パイマンの「リチャードⅡ世」も、カストルフの「終着駅アメリカ」も、タールハイマーの「エミーリア・ガロッティ」も、ハイナー・ミュラーの「アルトゥロ・ウイ」さえも。当然、リミニ・プロトコルもです。はっきり言って昨年の「ムネモパーク」やゲーテ・インスティテュートでビデオ上映された「ヴァレンシュタイン」に比べれば(新しいことをしようとして失敗したがゆえに)明白に見劣りしていると思います。でも、それでも日本のほかに行われいる上演に比べれば美的にも問題意識も傑出しています、というわけでの宣伝です。

 基本的に上演はドイツの歴史に沿っています、であるからこそ「資本論」であるわけです。出演者する人々は素人でおのおの体験をもとにしてしゃべります。「資本論」の内容自体は必要なことは上演内で説明されますので特に読んでる必要はありません。しかし、歴史的背景はちょっと必要かもしれません。おそらく最も傑出しているのは、この「素人」たちのそこらの俳優以上の存在感です。これはリミニ・プロトコルの演出の能力が最もすぐれているところです。心配なのは、NHKの撮影の方法ですね。どうも演劇とテレビドラマを勘違いしているとしか思えないわけです。キチんと考えられた上演においては舞台と人物の関係は演出ですでに作り上げられているのだからもうちょっと禁欲的に作ってほしい。昔、浅田彰チェルフィッチュの「目的地」をゴミとか言って話題になったけれど、それはテレビで見たわけであとで「三月の5日間」の再上演見て「洗練されたゴミ」といいなおしたそうだけど、やっぱりNHKのせいはあると思うんだけど。上記のようにリミニ・プロトコルは「素人」の出演者が下手な俳優よりはるかに存在感を持たせて舞台に立たせることができる。そこに彼らの問題意識を展開して上演する前提があるわけです。それが画面にキチンとでればいいのですが…。


 そういえばフェスティバル/トーキョーはこの秋もやるんですよね。どうもオリンピック招致がらみみたいだからこれも宣伝になるのがいやだけれど…。ちなみに秋もリミニは上演します。*1