稲葉振一郎氏の議論を読むときに(18日・19日修正・追記)

 どうも、ここまで三つ連続で稲葉さんを対象にしたエントリーを書いてしまったいうのはブログの開設の趣旨からはるかに飛んでしまっています。このこと自体、私がいかに現在ダメダメであるかという証拠ではありますすが…。ここはとりあえずブクマコメントをいただいたのでちょっとだけまとめます。コメントもしました。*1
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 いきなりこういうことを書くのもなんですが、私の稲葉さんへの不満は議論の内容(そこで違いがあるのは当然として)というよりも端的にネット上の議論でのその振る舞いに信頼が置けないところにあります。その具体的な例については直前のエントリーで取り上げました。個人的に思い入れがあるテーマでもありますので、まずはそれを読んでください。


http://d.hatena.ne.jp/NakanishiB/20080718/1216332197

 ↑のエントリーの後半部です。塩川さんの「和田春樹論」の援用は論旨を読み違えており間違っているのではないか問いかけたわけです。このエントリーはいくつものネタが重なっていて、読み取りづらくて申し訳ないですが。きちんと議論を行ううえで基礎になるような部分で振る舞いに問題があるからこそ、その後も不信を持ってしまうのです。

 
 これに対して応答がないままに、次のようなエントリーを出したり。

http://d.hatena.ne.jp/shinichiroinaba/20080723/p1(18日追記)

 また別の論争的文脈で塩川さんの本を「これを読め」と紹介するのはちょっと困ったことだと思うわけです。さらにブクマへの返答のコメントに対してさらに問われたので最近の論争についての各所での断片的なコメントのもとにどのような認識を元にしているかをここで書くわけです。*3


 ともあれ稲葉さんが一連のGDP論争でそれなりに実質的な議論が行われるようにしています。興味深いフォローも行っているのは確かです。それはいろいろ参考になります。
 実は稲葉さんについて問題なのは少なくとも自分の間違いは自ら認めることができるのに特定の他人の間違いは認めることができないことです。これどういうことかというと、例としてGDP論争の経緯を見てみると、mojimoji氏のエントリーに山形浩生氏が批判したのが重大な転機ですが、明らかに山形氏の間違いである部分を決して認めようとしない。これでは、mojimoji氏が怒るのは当たり前でしょう。皮肉なことにこの議論自体は他の参加者によって興味深いものになっていき、「ずらされ、隠されてしまった論点が今後浮上する可能性もあるでしょう。」という発言は実現したわけです。
 その意味で稲葉さんは有言実行したとは言えるかもしれません。しかし、それらの参加者は山形氏ではありませんし誤読を誤読と認めても(あるいは端的に無視しても)特に変わらず、むしろ議論を発展させようとするなら障害になったでしょう今回は運がよかっただけでしょう。
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 最初に取り上げた塩川さんの引用の問題も「強引な弁護」がもたらしたともいえます、これは前々回のエントリーで取り上げたときも一緒です。ただ特に今回は露骨に現れたように思います。少なくとも、今後はこのような議論における問題が自分に関してではなく身内に絡んだときに現れることの認識は稲葉さんの文章を読むときには必要ではないかと思います。過去の例はチェックしませんがとりあえず最近のことを書きました。「まともな議論」もしているからなおそらこれらは問題になるわけです。

http://d.hatena.ne.jp/PledgeCrew/20080906
 このような断定とは実は現象として近く見えても根は違うとも思うのですが一応リンクしておきます。ただそう見られても仕方ないという例は複数あったのです。そしてその一つにいついて私ははっきり問うたのです。やはりこういうことは止めてほしいと思います

 
 ここまでが本論で後はおまけです。



 (遠因はともあれ)どちらかといえば自分のことで暴走してしまったと見える例についてちょっと検討します(批判対象へのリンクがないことが暴発とみなす理由の一つです)。少しこれまた注意すべきことがあるかと思うので。

 http://d.hatena.ne.jp/shinichiroinaba/20080908/p1

 http://d.hatena.ne.jp/shinichiroinaba/20080903/p3

 これらについては、例えば、山口定氏を出しておきながらナチズムと保守派の相互依存関係に触れないというのはいくらなんでも困ったものであるわけです。それこそ暴発であるわけです(あるいは「競争秩序のポリティクス」を後で出すなら、ナチスドイツにおいて所有権が実はきっちり保護されていたということは当然知っているでしょう)。ただそういう問題はともかく、かなり興味深い展開も含まれています。後のエントリーになると

 それは実際には立憲民主主義の枠を外れた何らかの実力行使――たぶんそれを「市民的抵抗」と呼ぶことはできなくはなかろうが――になるのではないか。このような予想が、おそらくsvnseeds氏には何となく念頭に浮かんでのではなかろうか。まあぼくの場合はぶっちゃけそうである。

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 この辺りについては、遡ると市野川容孝氏との対立という形でも見出せます。これはですからかなり理論的なところから来ているはずなのですが。とはいえさらにこのような現実的反省もします。*7

 まあしかしこれは冷静に考えれば多分に「いらぬお世話」であり邪推だよね。だいたいそういう無力な左翼の暴発があったところで、大した被害は出ないはずだし、それにちゃんとした左翼の人は、「立ち上がる」前に必要なそういう足場固めに日々努力しているはずで、

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 また、次のような発言もあります。

 まあこのようにラディカル左翼を位置づける立場は、なまじの右翼の「左翼死ね!」よりもある意味はるかに失礼な立場なのではありますが。たとえは悪いですが、ハイエナの獲物を横取りして、食べ残しを放り投げるライオンみたいな感じで。

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 私なんぞは、「批判・批評」でいいじゃないか、前回取り上げたベネズエラにおいても良かれ悪しかれそれ以上のものとしては「経済的には」導入されていないし、導入のしようがないのですからと思うのです(政治的には前回参照、直接行動の問題ならまるで逆の例がボリビアで進行中 http://mainichi.jp/select/world/news/20080917k0000m030053000c.html )。
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 ではこのような違いはどこから来るかといえば、稲葉さんは私よりある意味で「左翼的」なのではないかということです。それはいやみな言い方をすれば本質(根本)的なものへの過度の重視です。景気(マクロ経済)という審級への非常な重視と独特のこだわりも、「便所の落書き」への無関心もです。あるいは、トランス・セクシャルの人に対するポルポト派の犯罪をめぐる議論に現れた鈍さも含めてです(マルクス主義フェミニズムの緊張や日本の左翼史を思い出せば)。そのような「歴史の法則」への実存的こだわりはまさに(特に数十年前の日本における)「左翼的」と言えるかもしれません。ローザ・ルクセンブルグに対する批判と相対的なレーニンの評価もその現われかもしれません。まあ頻繁に出てくるマルクス主義へのこだわりから思ったことでしかないとも言えますが。なお私はマルクス主義はレイコフの言う意味で保守のモラルに親和的な部分が強いと思っています。ですから、私には違和感がはっきりあるわけです。ただ、それほど単純でもではないので実はこの「保守的」な面に本人が気づいていないわけではないのですが。
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 このような推測はとりあえずおいておきますが。稲葉さんの理論からくる問題を、そして「思想の機能はエコロジカルなファクターに左右されるもの」という点を稲葉さんの内在的な問題に踏み込んで、社会に内在している問題の徴候として考えるということは有意義かと思います。ただこのことは最初に示した問題を認識した後に考えるべきことでしょう。そこをきっちり分けて何か具体的に書くのは私の現在の状態ではどうにも難しいのですが。

 追記・18.19日

 上記に追記したエントリー忘れていたので少し詳しく書きますが。引用すると*16

 個人的には、当面のところ愚直な原則論者の道を歩みたいものだ、と私自身は考えてはおります。要は「サバルタンは語ることができるか」というたぐいのお話にはもう飽き飽きした、ということです。(もちろん、「具体的な事実に徹すること」イコール「サバルタンにこだわること」などではないのですが。)

 そうだとしても、「技術論」が展開される環境があるはずです。もちろんブログなぞとは別にきちんと学術的な場があります。しかし、稲葉さんはそれをある程度ブログ上でやろうとしている、「技術論」が行える(少なくともふりをしたい)のならおのずと基本方針が必要でしょう。そして稲葉さんは明らかにその基本方針まで考えている。だとしたらそのような立場から出してしまう仕切りは自らの考え方に逆らって行われるべきです。そうしなければ「技術論」が展開される環境が破壊されるだけでしょう。松尾匡氏の書評のときは松尾氏の対応でなんとかスムーズに議論が流れました。皮肉なことに今回は山形氏が導入以外では無視されることで議論が進んだのではないでしょうか。「開き直り的ラディカリズム」はどういう立場にも現れるのですから。まさか導入時に「また〜か」メソッドが彼に適用されるようになることを望んでいるわけではないと思います(アイン・ランドのようにw)。まあ、こういう「相手のためを思って」論法は書いていて恥ずかしいのですが。何らかのコミュニケーションを期待しており、副産物でしかありえない成果に期待しても本当にまったく失敗することに意義があるという立場はとっておられないと思うので、このまま議論の環境の破壊を繰り返すなら「まったくの失敗」ばかりになる可能性を指摘しておきたいです。
*17

 ここからはまたおまけです。まるで話がずれますが、

http://ameblo.jp/hiromiyasuhara/entry-10137812924.html
 ここに引用されている東浩紀氏のちょっとあきれるような無茶苦茶さと、稲葉さんの振る舞いも似てはいるからにはもしかしたら理論的な類似が関連しているのかなと。決して二人とも完全に居直っているわけでもないのも共通していますし。

 以下は19日に追記

さらに、斎藤環氏の「博士の奇妙な思春期」(2003)のなかにもやや似た表現があります。

さて、私自身のことを言うなら多少は心情左翼的なところがある人間であることは否定しない。〜中略〜。かといって、南京大虐殺が史実であるかどうかには、いまだ懐疑的であるし、保安処分問題をタブー視するほどかたくなでもない。p119

 実のところこの章は論争的な文脈で書かれており、この表現はその中で自らの立ち位置の設定として出てきたものです。その論点においては私自身は斎藤氏の主張に説得力があると思うわけです。しかし、論争の文脈からすれば自らの中立的として位置づけを行った部分にこれが出るの大変問題です。普通の人々には違和のある「イデオロギー」的なものの象徴として「南京大虐殺」が選ばれているからです。そこから一般のコミニュケーションの場で「忌避されるもの言説」が(無自覚であれ)認識が存在しており、それに無批判したがってしまうということこがメディアや社会について専門家として考えている人の文章の中に現れてしまったことは、少し前とはいえ記しておくべきでしょう。きちんとした考察はとりあえず今はしません。はじめのテーマからだいぶ変わってしまいましたすいません。*18


すべての夢を終える夢

すべての夢を終える夢

 タイトルはこの本の原題、「どれくらいドイツ的か?」から思いついたので。作者はドイツ系のユダヤ人です。