稲葉振一郎氏のブログへの書き込みについて

かなり感情的になって読んだその時点で稲葉振一郎さんのブログへ書き込んでしまったけれど、おそらくほとんどの人に意味は通じていないだろうのでどうしようか迷っていました。ところがそのエントリーに稲葉さんがトラバした梶ピエールさんが返答を書いておられ(http://d.hatena.ne.jp/kaikaji/20080717/p1)
それがとても参考になったので私も後出しくさいですが自分の考えをまとめてみます。*1

 私が書き込んだのは↓のコメント欄です。

http://d.hatena.ne.jp/shinichiroinaba/20080715/p2

 エントリー自体はチベット問題に絡めた左翼批判で、はじめは何か問題にする必要もないと思っていました。私が怒った理由は最後にほとんど何の脈絡もなくベネズエラについて書かれていることです。このエントリーにベネズエラの話題をおけばそれがベネズエラの現政権への左翼の『擁護』への当てこすりととられて当然ですし、私はそうとりました。私が怒ったのはしかし当てこすり自体ではなく、稲葉氏が実はベネズエラにほとんど興味がなく*2昨年日本で報道されたこと(民間テレビ局の放送免許剥奪や憲法改正の提案とその国民投票による否決)をもとにテキトーに書いただけなのが見え見えだったからです。この「無神経な利用」への怒りゆえでした。ゆえにこの書き込みは私のベネズエラへの関心の強さに由来しているわけですしその点では個人的です。*3


 ですから私はヤフー・ニュースのベネズエラのページなどというものを紹介したわけです。もし何か書くのであればこの程度は読めということです、テキトーなことばかり書く人という認識が自分に定着してほしいのであれば別ですが。あわせてベネズエラを巡る報道の問題点が書かれたguardianの記事を紹介しました。*4既に私もエントリーで以前から書いています。*5それにしても「あるいは噂に聞くメディア規制のせいでしょうか。」にはあきれてしまいました。日本のメディアでじゃんじゃん流れてた「憲法改正に対するベネズエラ市民の憂慮の声」はどうやって取材したんですかね?。現在のメディア規制がどのレベルで問題であるかはそれこそヤフーでも読めばわかるのですが読まなかったのでしょうね。そこで二回目の書き込みを行ったわけです。日本のメディアはおおむねベネズエラの現政権にアンフェアなまでに批判的ですがそれはマスコミにとどまらないことも以前の書き込みの事情もあったので付け加えました。
 そのような前提のもとで以下のようにコメントしたわけです。

 無名の人の感想ならいざしらず、目立っているから取り上げてまるで調べもせずに無責任に意味ありげなことを書き散らす人はその発言に影響力があるなら速やかに消えてくれればいいと思います。そういう意味では関心など消えたほうがいいのかとすらうっかり書きながら思いました。

 以下はそこで紹介したかなり新しいレポートです。「現代思想」のカストロ特集号にベネズエラの記事を書かれている石橋純さんのものです。2002年のクーデターのときには「LATINA」に載った石橋さんの文章は日本語で読めるまとまった記述として極めて役に立ちました(「ラテンアメリカレポート」のが酷すぎたし)。*6

http://www2.jiia.or.jp/kokusaimondai_archive/2000/2008-07_004.pdf

ここからはチャベス政権の抱える問題点とともに、反対派は数においても力においても堅固であり良くも悪くも現在もきちんと活動できていることがわかるでしょう。他のラテンアメリカ諸国(明らかに独裁のキューバを除く)における反対派の位置と比較してみるのも必要でしょう。さらにチャベス政権の基盤の実情もわかります、「無知蒙昧な愚民」としかチャベス支持者を見ないがゆえに極端な独裁イメージも出てくるのです。なお、私は日本においてことのほか彼が嫌われているのは実は「無知蒙昧な愚民」というイメージが自らに向かってくることを感じての否認ではないかとうがって考えています。


 というわけで以上書いたことは梶ピエール氏の問題意識と一定は重なっていると思います。もちろん私は丸川さんと少しだけ知り合いですし、ちゃんと問題の文章を読んでから再考したいと思います。ひとつだけ気になるのは丸川さんは中国でなく台湾が本当にポジションを置いていることです。中国にポジションを置いている人が時に驚くほど台湾についてナイーブなことがありますから難しいところです(梶さんのことではありません)。まあこれは私自身何を書いているかもしれないし。それこそ私自身が三つ目のコメントに塩川伸明さんの

むしろ、共感する潮流の内部矛盾や欠陥をこそ、声を大にして強調すべきではないか。

 という言葉を肯定的に引いていますからそれに従うべきでしょう。もう一つ梶さんは

 丸川氏が『現代思想』誌上で見せたブレのない姿勢は、「今を生きる他者」=当事者への「応答可能性」に対して絶望的なまでに閉じられているがゆえのものだ、と判断せざるを得ないではないか。

 と書いていますが、このような書き方は「「応答可能性」など知ったことかくだらねえ」という立場、あるいは意図してそのようにかっこつけてみせる(それにまともな内実があろうがなかろうが)相手には通じないことが前提であるわけです。稲葉さんには当然通じることが前提で書かれているし、(以前の記事から判断して)丸川さんにもある程度はそうでしょう。私のエントリーもまたそれに準じているということです。通じないと判断すれば違った書き方をします。



 最後にかなり厄介で重要な問題です。稲葉さんはエントリーで塩川伸明さんの文章にリンクしそこにかなり依拠して書いています。*7しかし、はたして稲葉さんのエントリーの内容とこの文章は整合するのでしょうか?。まず梶さんから批判があった以上、

この感覚は塩川伸明氏が和田春樹氏を批判した際のそれと通ずるものであることは言うまでもない。

 という判断が問題になります。梶さんの怒りは塩川さんにもまた向けられるべきなのでしょうか?。これは稲葉さんがエントリーの何に反省したかという重要な問題です明らかにされるべきでしょう。*8

 
 次に、「中共のケツを舐める」ことと和田さんがしたようなロシアの急進改革派を支援することはどの程度共通するかするかです。また引用すれば

こういうわけで、一九九一年前後に、和田だけでなく、多くの日本や欧米のソ連観察者が急進改革派支持の大合唱をしたとき、私はどうしてもそれに同調することができなかったのである。

 現在日本や欧米で中国共産党支持の大合唱が起こっているとはとても思えないし、「ケツを舐める」という表現はそれが「みっともないこと」であることが前提となっています。実際、支持してもためらって支持する人が大半でしょう。これが無視していい差なのでしょうか。塩川さんの問題とした和田さんの振る舞いはこの前提なしにありえたあるいは問題にするに値したでしょうか?。

 さらにコメントで引用したように、塩川さんの

むしろ、共感する潮流の内部矛盾や欠陥をこそ、声を大にして強調すべきではないか。

 という部分が無視されているということです。稲橋さんは「共感する潮流」が人によって違うということを考慮からはずしてしてしまっている、和田さんは「急進改革派」をしていた。「「現代思想」の左翼」は「反資本主義運動」を支持している。塩川さんは自らの批判の前提として自分がどのような立場を支持したか明示している。それを援用するのであれば、自らの支持するものをはっきりさせるべきでしょう。

 それなのに稲葉さんは一般の人として

「悪いものは悪い」とはっきり言うべきなのであり悪い奴のケツを舐めるときには、それ相応の覚悟と戦略なしにやってはいけない。

 としか書いていません。しかし上に書いたとおり「〜の〜が悪い」という判断が一般にどう広がっているかという点で当時のソ連/ロシアと現在の中国ではまるで状況が違います。そしてこれは塩川さんの文章で和田さんによる社会主義理解の問題が大きく扱われていることに関係します。ここにこだわらないことが和田さんの「現実主義的志向」の現われとして把握されているわけです。

 少なくとも

和田はロマンティシズムに酔ったからというよりもむしろその「現実主義」故に革命主義に走ったのではないかというのが私の判断である。

 このような判断と稲葉さんのエントリーの主張が一致するかは非常に微妙です。第一義的には塩川さんの文章は「現実主義」の問題にあり、「ナルシズム」の問題は入っていないからです。*9ですからエントリーの後半で塩川さんの名前を出すことは非常に問題があります。塩川さんはただの一言も和田さんが「自分のために」悪いことを隠蔽しているなどと書いておらず、その上でその振る舞いを批判しているわけです、たとえ覚悟と戦略があってもです、つまりまるで主張が逆です。そうなるとそもそも引用の対象として適切だったのかという問題になるわけです。


 そして以下の「引用とリンクについての考え方」という注意書きがあるわけです。

http://www.j.u-tokyo.ac.jp/~shiokawa/ongoing/citation.htm

 これは主に未定稿について書かれたものですし、私もきちんと守っているとはいえません。ですが以下は重要でしょう。

 簡単にいえば、某氏が塩川の見解を引用して議論する場合、某氏の見解と塩川の見解は重なるところもあれば重ならないところもあるだろうが、そうしたズレに自覚的であることが望ましい。その自覚なしに、何となくいつの間にか某氏の見解と塩川の見解が二重写しになってしまうようなことは避けてほしい。

 他の場所での引用ではいざしらずこのエントリーにおいては上記の事態に近いことが起こってしまったのではないか。だとすればそれはきちんと明確にされるべきではないかというのが私が問いたい疑問です。これは最初に書いた個人的関心の問題の敷衍であるわけです。お二人に個人的に関係があるからこそ書くわけです。


 最後に私がこれを書いたのはまさにベネズエラの状況と当時のソ連/ロシアの状況は違うと考えるからです、あのような形で塩川さんの見解と杜撰に関係付けられてはいろいろな意味で耐えられないのです。

 われわれはまさしく和田の薫陶を受けて、このような指導者中心史観を克服してきたのではないかというものである。どうして、近年の和田の歴史叙述において、これほど大きなスペースが最高指導者に関する叙述で占められているのか、私には理解しがたいのだが、

 形はやや違ってもあまりに指導者中心史観でベネズエラ(ラテンアメリカ全体?)は語られすぎているからです。ただ私自身も実はそういう見方に傾きがちなのですが。そもそも塩川さんの「終焉の中のソ連史」においてトロッキーではなくトロッキー暗殺犯とそれをめぐる人々を書いた文章の中でのラモン・メルカデルが最後にたどり着いた場所としてのキューバと彼を招いたフィデルカストロについての記述が私の彼への興味のはじまりなのですから。最後は余計な私事になりましたが。



現代思想2008年5月臨時増刊号 総特集=フィデル・カストロ

現代思想2008年5月臨時増刊号 総特集=フィデル・カストロ

終焉の中のソ連史 (朝日選書)

終焉の中のソ連史 (朝日選書)

*1:既に反省の弁がありますが、http://d.hatena.ne.jp/shinichiroinaba/20080718/p1

*2:http://d.hatena.ne.jp/shinichiroinaba/20070112/p1のコメント欄参照

*3:同様の例についてはななころびやおきさんエントリーの引用の仕方も、http://d.hatena.ne.jp/shinichiroinaba/20080330/p1 ネグリ批判にだけ利用しているのはやはり。なお偶然だけれどななころびやおきさんは最近同じ主題でこのような一連のエントリーを書かれています、http://blogs.yahoo.co.jp/isikeriasobi/54094217.html。関連して私のエントリーです、http://d.hatena.ne.jp/NakanishiB/20080329/1206754664。ただ無神経さがそれだけで罪になるという気もありませんが。さらにベネズエラの視点からみたネグリに批判的な文章もありますhttp://www.intcul.tohoku.ac.jp/~syoshida/LACS/Vol13/13hayashi.pdf なぜか今はヤフーブログを私のPCでは見れないのですが

*4:面白いです、http://www.guardian.co.uk/commentisfree/2008/may/22/seeingthroughtransparencyin

*5:http://d.hatena.ne.jp/NakanishiB/20080304/1204618504

*6:ちなみに同じ雑誌に掲載された太田昌国さんのいい文章がネットにあります、http://www.jca.apc.org/gendai/20-21/2008/hankasu.html

*7:これです、http://www.j.u-tokyo.ac.jp/~shiokawa/ongoing/books/wada.htm

*8:個人的には「和田が重視する「民族」とは、具体的な個々の諸民族ではなく、観念の中の「民族一般」だということを意味するのではなかろうか。」という一節に明らかなようにむしろ梶さんの批判のほうが塩川さんの文章とあっていると思います

*9:ゆえに「現実主義」とナルシズムに親和性があるのではという問題設定もありません