『自由とは自己責任である』(追記11日)

 アクセスが突然なくなったので不思議に思ってたら、プライベートにしていました。まあ、たった半日ですが。それがわかって却って不思議なのはじゃあアクセスが2つあるのは何故?。どうも、カウンターのシステムがよくわからない。とりあえず、心配のあまりわざわざ確かめにきてくださったかた有難うございます。それにしても偶然の成り行きというの面白いですね、ネットをするリスクというものがよくわかりました。リスクの増大といっても実は今ひとつピンときていなかったけれど、このような過程で起きるのかと納得。というわけで、原因と責任は違うというのが私の口癖ですが、そうは行かない人間の心理ということについて考えさせられたので、今回の一言ということでタイトルに掲げときます。

 責任といえば、このブログからリンクしてしまった講演はどうなるのか。実は勝手に告知しようと思っていたのだけれど、それが厄介なリスクをもたらすことに改めて思い当たった。まあ、もちろんむしろこの方がよかったともいえるけれど、やはり問題はある。いわゆる「強い責任理論」をとれば、「責任のインフレーション」が起こるわけです。これはそう簡単には解決できない、あの分厚い本はそれを最大の焦点にしていたけれどついに解決していない…。保守のモラルを無自覚に受け入れていればいいのだけれど、そうはいかんのでw。マルクス主義はある位相ではそこを解決する装置だったわけど、無自覚な反復・茶番が反マルクス主義の側で主にネット上で起っているのは笑えるけど、ジジェクのいろいろな意味での「保守性」ってのもまた露骨にそれを頼りにしているところから生じているんだよな(私に言わせりゃこいつらこそ補完的なんだ)。その意味でまともに考える人が、皆、口ごもるのは無理はないけれど、事態は切迫していると(アーレントに抗していえば)。だがどういう意味で「切迫」ということが焦点でしょうか、「仕方がない」ではないという意味が求められるよな、そのいい例を見たしw。その意味ではあれ(「LEFT ALONE」参照w)が「楽しかった」ということを署名理由に付け加えるべきっだような。前も書いたようなだけれど少し進んだでしょうか。

責任と正義―リベラリズムの居場所

責任と正義―リベラリズムの居場所

 映画がDVDになってないのでこっち。