あけましておめでとうございます(手抜き・リンクなど修正5日)
どうも、随分とご無沙汰していました。ついに昨年の後半は更新できずじまいでした。多くの方はご存知でしょうがさして元気でもないが生きていてネット上のあちこちに顔を出していました。今年は昨年の反省のもともう少しまともなネット生活を送ろうと思っています。とはいえ、実質のあるエントリーを書くのは大変なので、昨年のベストなどは後から書き足していきます。とりあえず、クアトロガトスのホームページに載せた上演レポートの誤字訂正版を載せます。読んだぞという方申し訳ありません(~_~;)、昨年も一応上演しましたという宣伝ブログとしての弁解です。*1 それにしてもこのネタ(教育劇/の困難)ならチェルフィッチュの「ゴーストユース」を見てしまったのできちんと比較して考える必要があるのですが…。*2 というわけで見切り発車です…。あと、ほんとに今年はきちんと上演しますので、3号も順調に遅れていますが今年出します。
なお、批評誌クアトロガトス第2号は絶賛(うそ)発売中です。上のエントリーの購入方法をご参照ください。
とりあえず、そういうわけなのではじめて続き記法を使います。
「人体商品・資材」上演レポート
あまりにも時間の猶予(前々日)がなく限られた範囲でしかお知らせしか出来ませんでしたが、9月19日に劇団CUATRO GATOSの上演が行われました。概要は次のものです。
第7回「知のワークショップ」・知と身体の演出法
主催:早稲田速記医療福祉専門学校
病院管理科・医療経営情報科・診療情報管理専攻科
2007年9月19日(水) 14:00〜16:45
早稲田速記医療福祉専門学校7F研修室
内容:
1)発表「オイディプスの謎‐ ギリシャ悲劇の本質について」
井澤賢隆(早稲田速記医療福祉専門学校 病院管理科専任教員)
14:00〜15:00
2)講演演劇「人体商品・資材」
清水唯史+CUATRO GATOS(竹原洋平、田中紀子)
15:15〜16:15
3)質疑応答
16:15〜16:45
早稲田速記で教員をなさっている井澤さんのご好意により、、何度かここではCUATORO GATOSによる上演(パフォーマンス)が行われています。特に、前回、3年前の2004年9月15日のパフォーマンスは極めて特異な「事件」とでも呼べるものになりました、本気で私がこれまで見た上演の中でもっとも衝撃的なものの一つでした。今回は、形式はほとんど同じながら、対照的なアプローチの上演でした。ここでは私の日記をほぼ基本にして、前回と今回の上演を比較して紹介する形で上演のレポートを行います。
あの上演から3年がたったのかーと少し感慨深いです。思い出すと、あのころは私も結構元気だったように思います。今回も「事件という表現はふさわしくなくとも、良い意味でひっかかる上演でした。そこには、私にとって3年という時間がとてもはっきりと感じられました。 とりあえず手短に、今回と前回の上演の感想を書きます。
両方の上演で授業という形態は同じです、観客として来ているのはほとんどが本物(?)の専門学校生で授業として受けています。上演で行われる講演は、学校が医療福祉のほうに現在はほとんどシフトしている現状を踏まえてつけられた、題名「人体商品・資材」にほぼそったもので、ややわかりやすいように簡単になっているものの通常の清水さんの講演などと基本的に内容は変りません。 前回の上演はクアトロ編集委員の森下さんをはじめ10人弱の生徒でない観客がいました。今回は、「純粋な」観客として見に来たのは、ナベサクさんと水俣の上演でお世話になった細谷さんだけでした。
まず3年前の上演について書きます。はじめはともかく若い人の熱気に圧倒されました、実のところ単に生徒の私語が多いということでもありますが。今年の上演に比べると倍近い、100人以上が同じ教室に詰まってるのがその印象を強くしました。講演の内容は、もちろん題名の通りですが、同時に実のところ語りかけられている聴衆(含む私)自身についても語っているわけです。当然それに気づいている学生も多いわけです。
舞台装置としては、教壇からは観客に向けて何台かのビデオカメラが向けて設置され、清水さんは教壇の真ん中に陣取って、Macのパソコンを目の前において講演を行います。さらに、教室のあちこちにスピーカーとマイクが置かれて、講演の内容を流し、録音を行っていました。近年のクアトロガトスの上演で頻繁に行われる、Tシャツを固めたオブジェの搬入して搬出する作業も、田中さんと竹原さんの二人のパフォーマーにより行われました*3。オブジェはどんどんと教室内に運び込まれ、いすの間を通って教室の後ろに至るまで積み置かれていきました。パフォーマーは随時教室の中の(人の)写真をポラロイドのカメラで撮影して、その写真をオブジェに貼り付けていきました。
このパフォーマンスは途中から異様な雰囲気に変わりました、はじめに見たところでは良かれ悪しかれ「リラックス」していた聴衆はどんどん変わっていきました。私語も録音されていることによって変調していき、パフォーマーに写されることは彼らの緊張を増していきました。これは、、我々の社会が現在陥っているが、顕在化することの出来ない〈戦争状態〉が、パフォーマンスの仕掛けと権力関係によって上演のなかで顕在化してしまったものでした。それらは各人のプライベートへのパフォーマンスの侵入によって「通常の主体」が崩れて、不安定で緊張に満ちてざわめく人々があふれる状況でした。これを構成的権力が発現したと表現すれば明快でしょうか。現在、常に透明化され外部化されてしまう政治性や敵対性が各人に現れてしまったということです。 *4
上演は、前のドアから搬入されたオブジェが、後ろのドアから搬出され教室の外の廊下に積み上げられて終わりました。上演終了後に、外に出てみると、写真を貼られたオブジェがおかれた廊下の壁には求人票がはってありました。この上演は最大のネックとして、あくまで一回的なパフォーマンスであるとはいえ、やはり極めて特異な「事件」だったと思います。
さて、今年の上演についての感想です。まず、入った瞬間あれっと思ったのですが、教室内はずいぶん静かで落ち着いた雰囲気でした。教室内の人数が前回の半分くらいだったせいもあります。私の座った席の二つ前によく喋る二人組がいましたが、おおむね他の生徒はまじめに聞いていました。
舞台装置で前回と変ったところは、清水さんが舞台上手に引っ込み、そこで(またMacのパソコンを置いてですが)講演を行なっていたことです。講演の内容は少しだけ変わっていましたが、現在の社会における監視への欲求が論題として入っていたことでは同じだと覚えています。教壇の方からはやはりいくつかのカメラが聴衆を写すために設置されており、スクリーンでは清水さんが原稿を読むところを撮影し映しています。
前回と同じようにオブジェの搬入は行われるのですが、今回は前と違って、オブジェは教壇と聴衆に間に置かれます。さらに二種類のスタンドを使って、人の身長ぐらいの高さにまでいたる、オブジェの壁が作られていきます。講演は途中でやや手間取りながらパフォーマー(メンバーは前回と同じで最初に読んだのは田中さんです)に引き継がれ続きます(さらにこのときはマイクを使います)。しばらくして清水さんが「コーラ」wを飲んで、また戻ってきて講演を引き継ぎます。さらに、次にはもう一人のパフォーマーの竹原さんが読んだり、さらには録音された文章を流したりします。
今回はパフォーマンスは観客の間までには侵入せず、オブジェで作られた壁はやがて解体されていき、スタンドと共に前のドアから搬出されていきます。映像がライトの光を当てて消されると講演と上演は終了します。搬出されたオブジェは、ポイポイ捨てるように廊下に置かれていましたが、その途中で清掃にきた職員が邪魔なので一つの山ににまとめて置きなおしたそうです。そこはエスカレーターの前だったので帰りに生徒たち(と私)が眺めていました。
パフォーマンスは時間が少しあまらせて終了したので質疑応答になるはずでしたが、やはり質問はしづらいらしく、かわりに井澤さんが「これはコロスの舞台だね」と思いっきりネタばれの解説をしていました(その前に、上演者と観客が同一であるギリシャ悲劇の本来の上演について授業がありました)。実際、前回の上演との大きな違いは、壁をわざわざ作って見せることで近代劇場(だけでなく近代的学校、メディア)の構造を再現して見せたことです。しかし、基本的にはその壁が人々が暗黙に想定しているものを形にしたデコイとして作られた「表象」に過ぎません。そのことも上演の構造から示されます(壁を作ったオブジェは前回と同じです、これらは学生と講演者であり、「我々」の分有するものであるわけです)。演劇というより、「演劇の偽物」というべきでしょう。さらに上演するものと見るものが実は同質(交換可能)であり、にもかかわらず同時に不均等な権力関係があることを構造として示すことは、演劇批判だといえるでしょう。ところが、この上演においては講演で語られた内容も同時に存在するわけです。今回の上演の観客(生徒)が前回に比べて女性の比率がはるかに高く、9割がた女性であったことと、労働の売春性や代理出産といった問題が扱われたことは偶然だったようです。とはいえ、ねじれて二つの側面を示すことになったメッセージは上演に何かを残してしまったはずです。そしてこの上演がもたらすものもまた、前回に激しく現れたような「構成的権力」(主権)につながるものである、理論的にはそういえるはずですが、本当のところはまだわかりません。このわからない部分と、授業という形式と制度を使ったことにより、今回もまたやはり「パフォーマンス」になってしまったことは確かでしょう。だとすれば、このような手段に頼らない反復可能な作品(上演)としていかにこの「介入」をつくりあげるかという「中原昌也」的課題が必然的に現れることになるでしょう。*5
とはいえ、本当に印象的だったのは生徒たちの変化でした。もちろんそれは上演のアプローチの変化によるものでもあるし、人数の多い少ないという単純なことでもあります。しかし、一部の人々がデウスエクスマキナのように、そして排除的決まり文句として持ち出す景気の回復による改善がこの期間にあるはずなのに、私にはむしろますますの内向した切迫が感じ取れました。そしてそれが上演のトーンを決定的に規定していました。あるいは、それは私が年をとったに過ぎないということでもあります。3年もかけて何も立派なことも努力もしてきませんでしたから。しかし、生徒たちの年齢は前回と実は変っていないわけです。それが私に気になることです。
求人票はもちろん前と同じく廊下の壁に貼ってありました。早稲田速記の学生達の就職や就職後の実際の状況などは、上演の後の飲み会のときに井澤さんなどかある程度聞くことができました。 ですが、大雑把なこと以上はわからないこともありますし、ここに書くことは控えます。
*1:http://www.cuatro-gatos.com/theater/critique/200709nakanishi.html
*2:http://ghost-youth.jugem.jp/?pid=1 とりあえずSNSでは感想を書いたけど
*3:http://www.cuatro-gatos.com/theater/critique/200409nakanishib.html
*4:次の上演についての感想も含めて、このレポートを書く直前に読んだ、http://d.hatena.ne.jp/ashibumi68/20071002 を参照してください
*5:これはブレヒト対ベケットの問題ということでもあります、こちらも、http://www.cuatro-gatos.com/critique/txt/200507-1nakanishib.html