CUATRO GATOS上演レポート・12月10日、神奈川県民ホール

 
 このエントリーでは12月10日に神奈川県民ホールで行われたcuatro gatosの上演[or con-tainer/taint]のレポートを行います。
 この上演は同時に上演を行った「山田工務店」が企画から参加した「overtone?-美術の地上戦」の会場の一部を借りて行われました。一連のパフォーマンスが同日に行われましたが、これらは美術展の正式なプログラムです*1ただ、cuatro gatosの名前は公式のパフォーマンスの参加団体の中にはありません。これはかなり急に参加を正式に決定したからです*2
 このことも一つの原因で結果的に二日目の上演が行えないという事態を招きました。二日目の上演を見ようと考えていた方にはまことに申し訳ありませんでした。*3

 そのような結果でしたが、上演自体はおもしろく、重要な問題性のあるものであったと思っています。この上演レポートではその内容と意義について見られなかった方々のためにも多少でも私の理解した範囲で伝えられればよいと考えています。なお、レポートでは以後人物に基本的に敬称をつけます。以下の文章は事実関係の認識を含め責任の一切は私にあります。



 上演レポート・cuatro gatos[or con-tainer/taint]



 上演は美術展覧会場の一室で行われました、出入り口は観客の座る椅子の置かれた側から右側の壁に一つ、左側は椅子の後ろの壁に一つあります。美術作品は客の後ろを含め左前方を除いて展示されています。部屋の左側には壁にいくつかの絵が、入り口側から卵形のオブジェとさいころのような形で中が空洞の金属のオブジェがあります。クアトロガトスの上演が行われるのは、このオブジェにかどで近接している三つのダンボールで作られた装置をタブローの置かれた壁を背にして置いた「舞台」です。はじめは私は二つのオブジェが意図しておかれているのかと思いました。

 ちなみにこの上演は以前水俣病の胎児性患者の皆さんが出演して水俣と東京で行われた上演と、早稲田速記医療福祉専門学校で授業として数度行われた上演を踏襲しています。使われた装置は水俣のものと同型であり、清水さんが原稿を読み上げて講義をするという形式は後者で使われました。

http://d.hatena.ne.jp/NakanishiB/20061012

http://d.hatena.ne.jp/NakanishiB/20080102/1199216126

 いくつかの上演のレポートがこのブログの上記のエントリーとなっています。


 上演はチェリスト入間川正美さんとクアトロガトスのコラボレーションという形式で行われました。入間川さんは同日にすでにこの上演とは別に演奏を行っています。さらにmorning landscape 、Lens、「山田工務店」+劇★派 、の上演が行われました。上の上演についての詳細は略します、ただ、Lensの上演中にかなりはっきりといびきが響いてきたのが興味深かったです(上演の一部ではないはずです)。

 さらにいくつかの情報を付け加えておくとクアトロガトスは本当の意味での上演をこの5年ほど行ったことがありません。行われたすべての上演は無料であり、一回しか行われませんでした。特に後者は複製芸術としての演劇という観点からは深刻な欠陥といえます。ですので今回は2回の上演を予定していたので久しぶりの本格的な上演といえるでしょう。


 上演はダンボールの装置の中に清水さん、田中さん、宮下さんの3人と入間川さんが最初に入ります。入間川さんはチェロを持ち込んで演奏し、清水さんが資本主義社会の人間と、水俣病に演劇を持って関わるにあたっての問題を思想的に取り上げて論じた自筆の原稿の朗読を行います。田中さんと宮下さんは内部のカメラとマイクの操作をします。装置の外の三方向にはプロジェクターが設置され装置のそれぞれに壁面に映像を映し出します。

 なお、装置の設置から上演のパフォーマンス、片づけまですべては上記の4人が行い、スタッフとされている残りのメンバーは私を含め実際の上演にはほとんどノータッチです。

 
 上演は照明を消して始まります。まずプロジェクターを使い前方と上手の壁面には装置の内部を撮っている映像がうつされます、下手の壁面はこの上演においては客席から見ることができないのですが(席を立って移動すれば見えますが)、こちらには水俣病の事件史における重要な年号が映されていたそうです。少なくとも私にはオブジェと装置の隙間から漏れる光によって画面が切り替わっていることが確認できました。
 装置の内部を映した映像はたいていの場合、カメラがさえぎられています、顔の一部、耳や口、多くは手のひら、さらにチェロの演奏の一部がクローズアップされ映されます。私は宮下さんと田中さんの手の識別をしようとしましたが結局だめでした(^_^;)。

 原稿は論文のようなものですが用語は難しくとも平易であり、Lensの上演で朗読されたミシェル・ドゥギーのような詩的であったり、難解であったりはしません。同時にごく小さく切れ切れという感じでチェロの音が聞こえてきます。当然ですがこれらは生音でなく中のマイクによって拾われて外部に流されます。

 やがて上演が進むにしたがって、下手の壁の映像は電車の中から外を映したものに切り替わります、音声も電車の音や中の話し声が加わります。この映像はスタッフとして記名されている、清水さんが水俣の胎児性患者の長井勇さんに付き添って電車に乗って撮ったものです。長井さん自身が車椅子に乗っているのがドアのガラスに映っているのをうっすらとだけ見ることができます。

 なお私の隣にはそもそも清水さんに水俣での上演をもちかけた細谷さんが座っていました。細谷さんが途中でうつむいて目を閉じているのでどうしたもんだかといぶかしく思っていたのですが、寝ているわけはありません(いびきが聞こえませんしw)。これはあとから清水さんから聞いてわかったのですが、どうやら映像と一緒に流れた音声の中の長井さんと清水さんの会話を聴いていたようなのですね。

 上演は原稿の朗読はラストに向かいます。上手の映像は元のとおり装置の中に移り、チェロの演奏は大きくはっきりと聞こえてきて、映像もチェロの演奏を中心に映すようになります。やがて原稿の朗読は終わり、チェロの演奏だけが響きます。映像ももはやチェロとそれを引く弓と手しか映さなくなります。この状況がしばらく続き上演は終わります。
 ちなみに原稿の朗読が終わってから下手の映像はもう切り替わらなくなります、最後に映された年号がいつだったのかは確かめていません。



 ここからは、この上演がどのような意図と構造を持っていたかについて、私の理解に基づいて解説します。踏まえられている以前の上演を参照すればわかるようにこの上演の基本は映像が映される装置にあります。そしてストレートプレイの戯曲の代わりに原稿の朗読があります。

 上演の基本構造とは別に場所の条件としてオブジェの存在があります。これはすでに上演の基本が定まったあとで他に装置を置く場所がないということで上演に組み込まれてしまったものですが、上演の空間を二つに分割し、美術展の会場で上演することのわかりやすい意味ををしめすことができたでしょう。


 次にコラボレーションの相手である入間川さんによるチェロの演奏です、私は現代音楽をまったく理解できない人間なので、入間川さん演奏会ではいつも苦労しています(^_^;)。しかし幸い、今回の上演では音楽は最初から最後まで見事にはまっていました。特にラストの演奏は映像とあわせて耽溺しました。映っているのはチェロの演奏の部分です。演奏のこの段階での自律性は来てご覧になったいた人にはわかるでしょう。ですが気をつけなければ行けないのは、上演の時間的構成から見たときにはこのラストの演奏は一つの結果であり手段であることです。手段というのは「自律した芸術」がなんでありいかに表れるかを示すための手段でもあるということです。舞台装置は完全に(映像を含めた)演奏のためのものです、それは当然ながら、上記したようなさまざまな雑音や他の映像を消費し去った後に成立するのです。さらにそれはチェロの映像の存在により却って奏者のいない自律した演奏のビジョンとなります。演奏が行われる美術展という場からも自立しているはずでしょう。このような「芸術」の提示のあり方が上演の一つの目的です。

 さて、この映像における演奏の部分というものは当然ながら、上演の映像にずっとでてきた人体の部分につながります。このエントリーからのリンクのあるレポートを読んでもわかりますが、クアトロガトスの上演においてはパフォーマーはふつうの演技をしません。むしろこれはごく一般的な意味で作業と呼んだほういいでしょう。もちろんプロジェクターなどの操作などの見えないところで行われる作業も含みます。ですから映っていたのはチェロの演奏と同じです。それを行うのは手段の提示というパフォーマンスであるという違いが明白です。ですがしかし装置の中を映さないという目的の手段でもあるのです。

 ここから長井さんの映像を対象に考えます。同様な構造が成り立つことは予想できるでしょう。この映像自体は、今年、政府に対し抗議をし補償を求める運動のために東京に来たときに撮られたものです。同時に長井さんの私的な記録であり、今後、長井さんがどのような形でか参加して行われるクアトロガトスの上演のための記録でもあります。その意味で手段であることは当たり前ですが、上演の中では別の位置づけをされます。まずこれは長井さんが撮った映像ではありません、かといって映像にはほとんど長井さんが映りません。ドアのガラスに映っているだけです、これを映像の中の映像と捉えることもできるでしょう。公害による受苦者がさらに手段化される。確かにこれまでの上演のテーマと重なるようです。しかし、映像には別のものも映っています。

 映っているのは電車の中の情景です、すでに書いたように撮影者である清水さんもドアに当然映っています。ドアを向いていますから外の情景が映っています、他の乗客も映らずにおかないでしょう。ここで気をつけるべきなのはこれはやはり電車という「中」を映していることです。ドアは外と中を出入りするためものです。  
 いささか余談を入れると今年亡なった映画監督で演出家のクリストフ・シュリンゲンジーフ(シュリンゲンズィーフ)」*4は10年前に映画監督として来日したときにイベントで日本の印象を問われ、「どうして障害者の姿を見られないんだ、隠しているのかい?」と答えています。恥ずかしながら注意力散漫な(というより視野の狭い)私は電車でめったに障害者の方に気づくことがないのですが...。ここでは長井さんは車椅子に乗っています。なお長井さんは中学生までは車椅子なしで歩けたそうです。いずれにせよ、車両の外に出るときに必要なのはドアだけではありません。車椅子のほかに私が注目したのは手すりです。われわれにとってはむしろ転げ落ちないためにあるものですが、かつての長井さんや障害のある人には極めて重要なものでしょう。長井さんには単に必要なだけでなく、車椅子に身に着けなければならない一体であるものです。

 私が映像から取り出したものは、「手すり」、「手と耳と口」、「チェロの演奏の一部」などです。これらは体の、物の、演奏の一部であり手段です。かの現東京都知事によると「人間が本能として持っている根源的なフェティシズム」を、これらに見出すこともできるでしょう。確かにこれらの映像はなまめかしい。手や口も、光る手すりも、ラストの一体となった映像と演奏もです。*5だが、ここでは「手段」であるものを見出すことが重要でしょう。そして手段の提示ははそれを使う目的と主体そしてその欲求を露にするはずです。ここでは「手すり」が必要とされることと「芸術」が必要であることをあえて等値していることを指摘せねばなりません、後者は客である私たちにとってもこの上演で直接にそうであるわけです。


 この手段というものはまた表現と伝達の文脈において別の名前を持ちます、「媒介」です。美術展におけるテーマである「異質なものとの出会い」はもちろん媒介を必要します。そもそも正確には「出会い」だけでもう必要であるはずです(もっと言えば芸術という領域には必ずついて回ります)。では、この上演における媒介の現れ方はどのようだったでしょう。まず美術展の会場でパフォーマンスを行うということから考えます。具体的に見ましょう、会場で唯一クアトロガトスの上演と構造的な関係を持ってしまったのは既に書いたようにさいころ型のオブジェです。ただ電気を消した時点で他の作品の多くは見えなくなってしまうし、客席の後ろのタブローなどこの日は上演の行われていないときでも見るのが大変なのですが...。

 問題なのはこのオブジェに関しては上演において手段化されてしまったことです。当然ですが作者の方にも清水さんにも正方形が並ぶことは事前には予想できなかったでしょう。ただそのことが上演の中で意味を持ってしまうことについては偶然ではもはやすみません。再度書きますが上演の空間の分割は注目に値します、私ですら下手の映像を見に行けなかったのです。このことはラスト数分の入間川さんの演奏が先に書いたように「自律した芸術」であるという効果の手段となります、下手の映像を隠すことの意味はここでは大きく、さらに舞台の形までも変えてしまいます、山田工務店の作品の飾られた壁と同じ役割を果たすのですから正面の位置が前方のダンボール板と下手の板の角に来ることになります。あるいはこの上演が水俣病と関係を持つのも原稿の中だけに見えるかもしれません。このように上演が具体的にある作品を手段化したことは確認しておきます。これはこのオブジェが上演と美術展自体の媒介になったということにもなります。


 しかしながら、同時にこれはやはり上演の意図と構造から見れば一回的な効果に過ぎないのです。なぜなら、「手段化」こそこの上演の基本的なテーマであり上演で構造化され、再び別の場所でも理屈の上では同じ上演を行えるからです。具体的には演奏を手段化し同時に演奏自体を「自律化」する演出があります。前述のとおりラストにおいて客は演奏を聴くときに「手段化」が両方向に行われていることに気づかされるでしょう。演奏がラストにおいても映像と一体化していたことも忘れることができません。それが芸術の本質的な作用であるのです。手段化と媒介化を執拗に示す映像はその現れです。しかし本当に重要なのはこの映像の「媒介」です。

 つまり映像の媒介である「壁」こそがこの上演を成立させているものであるのです。そのことにリンクを提示した以前の上演レポートをお読みなった方は既に気づいておられたでしょう。この壁は清水さんの原稿の言葉を使えば「支持体」です。しかし、水俣の上演と違うのはここではもはや患者の方々がいることに頼ることができないことです*6。さらに早稲田速記での上演を見ればわかるように壁はあるものではありません、また演ずるものと客を単に遮断するものでもありません。現実の空間と時間におかれる上演においてはこの壁をいかに作るかがこの壁の意味を示すのです。さらに実は演劇においては厳密には同じではないのですが芸術においては壁を作ってしまうということによる作品≒行為の自律性が芸術であることの必要条件となります。*7

 この上演において主題となるのは、芸術が必要とする媒介性でありそれが必然的に伴う「壁」というものが身もふたもなく現してしまう「物質性」です。しかしすぐ以前に「厳密には同じではない」と書いたように上演の構造が示してるのはこの「物質性」が相反する形で同時に存在することです。一つは何度も上演内での演奏をその象徴として述べたように芸術の美的な物質性(自律性)です。もう一つが上演で「壁」として現れてしまっている「物質性」です。「物質性」は「媒介性」として機能するという意味においてなくすことは決してできません、しかし作品によって大きさや形、性質は変えることができます。今夏の上演では上演では媒介性」は壁という象徴的なものは、実はカメラやプロジェクター、マイクやスピーカー、それらが発する音や光というを媒介し同時に閉ざすという機能しています。この意味で「媒体」の物質性はこれらにまで及ぶのです。この上演が目的としたのは「物質性」を示すこと、それは当然ここまでおよびます。


 しかし上演を行ってしまうということはもちろんクアトロガトスが芸術という領域で行動することを選ぶということを示すことです。私の意見ではもちろん「芸術」を選ぶことは厳密には必然的な選択ではありません。「ケーキよりパンが食べたい」というのはまったく文句をいえない正しい選択であるでしょう。*8ただ、パンもケーキも食べるものなんですw。それが物質性です。
 さらに「芸術の美的な物質性」を示した上で、なおもう一つの「物質性」を対置する。これを行うのは前者を啓蒙する(≒楽しんでもらう)ことを目指すとともに後者に賭けるということです。その理由こそ、最初に踏まえてるとして示した先行する上演を行った理由なのです。それゆえに今回も水俣をテーマにして上演を行ったのです。

 ですがここで述べたような二つ目の「物質性」への期待は危険なものでもあります、それは今回の上演でも朗読されたような理論や思想ではコントロールできないからです。それは美的な「物質性」のどうしても帯びてしまう安全さと対照的です。ですが、上演が示したようにもう一つの物質性を持たない芸術などありません。それゆえにこそ前者の「芸術」はまだ行う意味があると思えます。そしてそのように上演に賭けるからこそ、演出として上演のすべてを説明しているはずの原稿が朗読されます。これを行うにあたって必要な信頼こそ上演に第一に必要なものです。

 以上のように書いてきましたがだからこそ物質性は当然上演の意図を外れます。この外れることの個別的な原因は事前に必ずしもわからなくても上演の具体的な部分にあります。それはしかし上演で必ず起こることです、私がクアトロガトスのスタッフとしてこの「上演レポート」を書くよう事前に求められたのはそのようなような「失敗」に対処するためです。そしてここでそれを行っています、失敗は事前の予測よりはるかに大きなものになったわけですが、なお上演とその失敗を伝えるためにこの文章を書きました。できればさらに失敗の原因を知りかえるために役に立つよう望んでいます。


  
 最後に観客の問題です、両日に来ていただいた観客の皆さんにはありがとうとしかいえません。しかし上演と観客の関係を考える必要はあるでしょう。観客についてはこれまで多少触れました。本当は重要でありながら触れなかったことを大急ぎで触れると、上演が無料だったというのは問題です。もちろん美術展全体が無料だったという前提はあります(どうしてそうできるんだかは知らんが)。しかし「物質性」や「手段」について書いてきた例で目立つのは、確実にそこに作業が必要になることです、その意味で当然ながら上演をする側は有償です。また、第一の意味での「芸術の物質性」とは違い、第二の意味での「物質性」は空間的、時間的に観客に対しての線引きにおいての壁、音、光という形で直接の作用をします。このような作用を受けとる観客がまさに第一の意味で「芸術」の享受者としてです。というのはこのたびの上演は水俣への政治的社会的アプローチとは正面からなっていません。また、勉強のために聞かなければならない授業でもありません。そのような怠惰で贅沢な芸術の観客を上演はどこまで動かしえたでしょうか?。*9

 皮肉なことにおそらくこの美術展に作品を展示した作家たちがもっとも観客としてふさわしいということはできるでしょう。彼らは作業による作品を置いていたからです。彼らにとっての上演がどういうものだったかについてですが、さらにオブジェとの関係について述べたことを比喩的にもうすこし敷衍します。絵と、卵形のオブジェと正方形のオブジェの配置あった陳列が上演によっていかに意味を変えられたか、というよりは分断されたかをさきに述べました。この分断を取り上げたいのです。上演が正方形のオブジェを取り込むことにより、卵形のオブジェが本来の意味から分断された状況です。これが上演が観客を置くべき状況であるわけです。そしてこの壁が「近く」にあり、それを作った他人が「近く」にいることを示すのが上演です。少なくとも美術展で上演するということで他の作品とのかかわるということはこれによって多少はできたでしょう。

 そのような出会いがどう受け取られたかは今のところきちんとはわかりりません。まして他の観客にとってはどうかわかりません。それでも、Lensの上演時に聞こえたいびきが聞こえなかったのは確かです。*10それが単にいびきがかき消されたか、その客がいなかったからかもしれませんが、この人をたたき起こすことぐらいは出来たのだと信じたいですね。

http://web.me.com/cuatrogatos/CUATRO_GATOS/cg.html
 クアトロガトスの現在のホームページです

尽き果てることなきものへ―喪をめぐる省察

尽き果てることなきものへ―喪をめぐる省察

 

*1:http://blog.livedoor.jp/overtone2/

*2:入間川正美の演奏のコラボということになっているはずです

*3:http://d.hatena.ne.jp/NakanishiB/20101209

*4:日本での上演が実現しなかったのが実に残念です

*5:フェティシズムにかんしてはここではこれ以上取り上げませんがこの上演においては本当はさらに考察が必要でしょう

*6:もちろん患者の方々がいることに頼るのは、彼らがいるという前提への疑問を提示するためなのですが

*7:実際の演劇は実のところこれが実現できていることは少ないのですが

*8:ベンヤミンを引用すれば「真のアウラはすべての事物において現出する、連中の妄想しているように特定の事物においてのみ、ではない」ということです

*9:上演は客に有償であるべきというのは私の基本的な意見です、少なくともこのブルジョワ世界の続く限りは、詳述はできませんが、この金銭が表立って介入することが「芸術」のさらにもう一つの物質性、社会て社会的な物質性への経路を開くはずです。付け加えると「物質性」はこの三つしかないのでもなく、定まった数あるわけでもありません常にある物質性に対してもう一つがあるのです

*10:もっとも、Lensの皆さんもクアトロガトスもクアトロが今回したような形の上演では決してドゥギーの詩は使わないはずです