もう一つの「告白」(25日すこし修正・6日追記)

 ドイツのノーベル賞作家、ギュンター・グラス*1が戦時中に武装親衛隊に所属していたことを告白しても話題になっています。いくつか記事がありますが、この朝日の記事がが典型的でしょう。

http://book.asahi.com/news/TKY200608170437.html

 他にも次のようなエントリーがネットに非常に役に立ちます。

http://d.hatena.ne.jp/temjinus/20060817

 その他最近の彼に関する記事*2、彼の詳細な作品の解説のあるページなどもあります*3。私もちょっとここに書き込んだりしてます*4 *5。まあ私は、同世代の東ドイツの劇作家、ハイナー・ミュラーのファンなのでグラスの姿勢の評価は微妙なのですが。

 面白かったのは常石敬一さんのブログで、日本ではこのような告白はありえるだろうかと書いています。*6大岡昇平のことなどを例に挙げたりしていますが、私はグラスがかつて自分はハインリヒ・ベル(1917年生)のような「本当の従軍体験」を持っていないと述べたのを憶えていて少し違うと思います。で、思い当たったのは吉本隆明です。というか、彼の発言をサンデー毎日9月3日号*7で読んであきれかえったのがこのエントリーを書く理由です。本当は「引きこもり」についてのいかにもしょうもなさそうな特集を読もうと手に取ったのですが、そんなこと忘れるほどの凄さです。

 吉本は1924年生まれで3年違いですし、詩人という初期の経歴がまず同じで、「軍国少年」だったと自称していることも同じです(もっとも、終戦時20歳で、吉本は従軍も政治組織への参加もしていない)。グラスの生まれたダンツィヒ(現ポーランドグダニスク)が多民族的で(彼自身母親はスラブ系)、歴史の焦点になってしまった街なのはちょっと異色ですが。さて、彼の「内在主義」「ロマン主義」的思想は初期の詩から露骨に現れていてそれを嫌いになれない私も困ったもんだと思うけれど、これが一貫して変わっていなのももうすでにご存知の通りです、要するに「大衆の原像」という本質との一致が最大の思想的掛け金なわけです、詳細は適当に参考文献探してください。それが戦後史と冷戦史のなかでどのように働いたかも、まあ調べりゃ面白いでしょう。ただ、彼がいまだに問題になるのは高度成長以前の「大衆」とそれ以後の「大衆」を本質的に同じものとしているということです、それが現在も影響力がある最大の理由です*8 *9

 で、問題の記事で、靖国参拝について、小泉を手放しで擁護しています。私なんぞは、「公約に基づき私人として内閣総理大臣という肩書きつきで実行される心の問題」
http://d.hatena.ne.jp/Apeman/20060815/p1、という奇怪きわまるものを、「総理大臣が、〜個人としてお参りした」という理解(公約はどこに消えたのかw?)で肯定し、「文芸批評家」吉本隆明と似たようなものと言い張るのはあきれますが*10。で、自分は軍国少(青)年だったというお決まりの話と、当時戦争に反対したリベラルなんかいないという根拠レスなお話し(この辺りの執着は相変わらずで、思わず「下種の勘繰り」をしてしまう)、その後に生き恥を晒した代償として、「日本国とは何か」について考えて、1945年には戦争が終ったのではなく日本の近代史(戦争の歴史)が終ったのだという結論にたどりついたという話。それから、また進歩派批判、しかもネットでおなじみの左翼のくせにA級戦犯分祀を主張しているという失笑しちゃうもの(誰を念頭においているのだろう)と、そもそも靖国を問題にしていては現代(なにそれ)に進めないというありがたい診断。

 興味深いのは、「日本人は百万人単位で犠牲を出したのだから〜」、首相の参拝を理解する。「富田メモ」に関して、昭和天皇こそ「超A級戦犯」(なんなんでしょう?)と指摘して、政治に口を出すのは象徴天皇制に反している(不思議なことにここだけ憲法論、政教分離なぞどこ吹く風なのに)という話。かなり唐突にでる、中国や韓国や北朝鮮(T_T)に対して問題が起きるからといって批判するのは間違い、なぜなら〜というお話(ちなみに外国について触れているのはここのみ)。今、「無色透明な、政治的意図があるわけでない」国民に聞けば参拝賛成派の方が少し多いでしょうという話。

 どうも、この意見、ネットの参拝賛成派の主流によかれ悪しかれとても近いですね。天皇抜きのナショナリズムもそうですし。外国の批判に屈しないということへの本末転倒なこだわり。そもそも、過去の戦争の認識から他の国が欠落していること(アメリカには言及なし)。*11靖国神社がどういうものであったのかに興味も知識もまるでないこと。自分が国家を動かしてしまうという意識はまるでないのに、政府のすることには追従すること。ほとんど習慣的な現状肯定(現在の社会と既成事実と多数/普通であることへの執着、そして現にある権力へのすりより)の志向。

 小泉については散々書きましたが*12、彼が国民に常に支持されてきたことは事実です。郵政民営化など、もはやたいていの人が忘れてるでしょうが…。彼の特徴は一つには彼が聖断を繰り返す存在であるところにあります、それが「カリスマ」の定義だし、そのことによって作り出される敵「外部」の存在がその権力の秘訣です*13。さらにその「本気さ」と「単純さ」があります、皆は彼がわかりやすく本気であることで快く迎え入れます。「ばななしか知らない人のための吉本隆明入門」から引用すれば吉本隆明も、「「ごまかさない」「ウソをつかない」という評価」を受けています、単純な敵の設定も似ています(「理論上の敵を存在上の敵としない」ということを理解できないという評はこの両者に通じます)。人間として似た側面はあります。その小泉が国民の支持を受け、ついに首相になり靖国に参拝しました。これはおそらく吉本にとって、1945年以来断絶されていたものがつながったのです。聖断によって、彼と国民と国家をつないでいたものは破壊されました(軍国少年なんですから)。今そのような傷が修復されようとしています。小泉を媒介に、彼は「日本」(そして世論調査によればその国民)に抱きしめられて(勝利を抱きしめて?)いるのです。このような地点に来るまで彼はどれだけ失敗したでしょう(80年代を典型に)、他の彼の同世代人や彼の影響下の人々がここまで至れたでしょうか?。まさに歴史の「奇跡」です。これに感動せずして、何に感動するのでしょう?。

 そういえばかつて対談本を出した、大塚英志は「わしズム」(ちなみに、こうの史代『古い女』は傑作です)で小林よしのりと座談会をしてますね、まあ議論は小林よしのり相手のほうがよっぽど可能なのでしょう。

 小泉の時代は終ろうとしていますが、小泉から目を逸らすことを続けながら(あるいはずっとましだけど単に彼を馬鹿にして)現在の社会について考えるフリをしてきた人も、そろそろこの特記されるであろう時代に何をしてきたか考え直す時期ではないでしょうか?。その影は長く続くのですから。


革命的な、あまりに革命的な―「1968年の革命」史論
 題名のパクリです、しかし、この本の索引でもっとも多い人物は吉本隆明だということは68年の評価にとって決定的でしょう。http://www.bk1.co.jp/product/2322852/review/221904 秀逸な書評。

〈民主〉と〈愛国〉―戦後日本のナショナリズムと公共性
 ネタ元

政治的ロマン主義

政治的ロマン主義

政治的ロマン主義
 特に説明する必要はないでしょう。

敗北を抱きしめて 上 増補版―第二次大戦後の日本人

敗北を抱きしめて 上 増補版―第二次大戦後の日本人

 単にしゃれです(^_^;)?。

レイテ戦記 (上巻) (中公文庫)
 あえて加えておきます(25日)。

追記6日

 ブクマでnoharra さんから、
>「当時戦争に反対したリベラルなんかいない」は真実だ。
というコメントをいただきました。
 そこでとりあえずサンデー毎日の原文を引用します。

僕らみたいな戦中派で、今どきリベラリスト見たいなことを言う奴がいるが、当時はリベラルなことを言った奴なんか一人もいない。みんな戦争賛成、国民もみんな賛成としか思えないような情勢だった。

 以上のとおりでエントリーで論旨の都合で二つに分かれてとりあげ混乱を招いたことをまずお詫びします。
 前半はまともに意味の取れない文章ですが、私は文脈から吉本の言う「リベラル」は反戦的という程度を意味すると判断しましたが、この断定に根拠があるとは思いません。後半の意味は明瞭です、自己と国民の戦争加担の責任の否定です。前半と後半はひとつだと判断しました。

 ともあれ、リベラルに関しては、まず「リベラル」とは何か、1931年から45年まで一貫性を問うべきかという、問題があるので困難です。ただでさえ、体制と知識人があいまいに妥協していたのは事実ですからなおさらです。単に自由主義の知識人といえば、石橋湛山ですら戦争に反対したかどうか厳しく見れば微妙でしょう。ですが、私は大本事件(彼らが思想的にも現実にも「右翼」と近かったからこそ)から横浜事件(でっち上げであるからこそ)まで、「反戦」「反帝国」の系でありその現われとして評価すべきと思います。吉本の発言はそのように微妙な歴史の抹殺と現在の異論の封じ込めをもたらすものです。それは現在における典型的なファシズム言説としてそれに対処する方法を考えるべきだと思います(いくらでもエピゴーネンはいますし)。彼の過去の業績は好きな人が好きに検討すれば良いでしょう。