ベケット・イマネンス

 とりあえず、吉増剛造さんによるオープニングレクチャー(7・14)のことを書きます、これは実はポエトリーリーディング、もしくはパフォーマンスなんですね。聞き終わってから、知り合いのYさんに吉増さんはいつもこんな感じでやっているんですかと聞いたら、そうだといったし、どうも観客の皆さんにも吉増さん目当てに来ている方が多かったようです。

当然、私は本人のリーディングを聞くのは初めてで、本で読むのとはまるで違った衝撃がありました、その昔、究極Q太郎さんのリーディングを昔渋谷で見て以来の面白さでした(いいのかなこんな比較?)、しかしリーディングなんてめったに聞かないので。

 基本的には一応ベケットについてのレクチャーです。参考資料として手書きのレジュメのようなものが配られるのです。初めはごく普通の挨拶をしていたので(なんせすぐ近くに座っている方の話だった)、うかつにも気がつかなかったのですが、吉増さんは実はレジュメを「読んで」いるんです。レジュメは表裏に印刷された活字の文章や、鉛筆、赤ペン、などでさまざまの書き込みがなされていて、活字で書かれているのは基本的に引用(ベケット、エミリー・ディキンソン、ドゥルーズ、とはいえほんのわずかですが)。それらを書かれ方にある程度対応して微妙に調子を変えて読んでいきます、さらにはレジュメには書かれていないこともあります。

 基本的にはベケットの「見ちがい言いちがい」の冒頭部分(英語)を素材にするという形ですが、そこに出て来る(かどうか実は確認できない)「ON」という単語を流れの中心にしながら進んでいきます。「オン」という読みからのつながりで「見ちがい言いちがい」につながり、「O」という字の形などから卵型の記号(実は以前から使っているらしい)を絡めて話が広がっていきます(でこの卵形はこの文脈では当然「名付けえぬもの」のラストのあれなんですね、後で気づきました)」。途中、ドゥルーズの引用を入れたりしつつ、エミリー・ディキンソンに話が移ります。これらも「O」つながりです。形としての「O」(卵形)と「ON」という言葉は吉増さんが読まれるときはどちらも「オン」でこの二つの重なりと(レジュメ上での違いという)微妙なずれが、テクストとリーディングを微妙に繋げつつ分けています。このパフォーマンスはレジュメの情報量がとても多いので基本的にレジュメを読みながら耳で追っていくことになります、そして色々なきっかけ(明らかに作為的にそうさせようとしているところもある、書かれていない文章を読んだ時が主です)で時々ふと目をあげると見えるしょぼくれた中年の男性(というにはもっと年をとっているはずなんですがそうみえる)が、ベケットにおける「名付けえぬもの」(一応小説があるのでこういっちゃいます)を示していく見事なパフォーマンスでした。このレクチャーのレジュメとしてのテクストの利用法はすごいですね、いつもこうしているのでしょうか。

 ただ、吉増さんが提示する「ON」はある種非常に詩的だという印象を受けました、つまり「Ontology」の「ON」という事です。確信犯で否定的な手続きで示される「ON」は、ここでは吉増さん自身ではあり、それは確かに物理的因果的な関係を表す「インデックス」としてあるのですが、メタファーによる「アイコン」としてあることも上記のとおり確かです(このあたりの用語は「舞台芸術」8号*1の共同討議から)、しかしアイコンでない=(上演空間の設定のない)パフォーマンスなんてなんてないのですが…。

 モレキュラー・シアターの上演について書くために「共同討議」など読みなおしてたけどぜんぜんまとまらないのでここまで、今回見た印象は以前(ミクシーで)書いたのと違って吉増さんとモレキュラーは違うよねというものなんですが。というわけでそのうち書くつもりなんですが…。

おまけ(20日、ネットの問題とナチスの基本イデオロギーについて追加の上独立)(24日この日に引越し)

 問題のドイツでは、SPDを飛び出した左翼反対派と旧東ドイツ政権党(社会主義統一党)の後継政党であるPDS(民社党)が新党を作るそうです、PDSの元党首のグレゴール・ギジはミュラーの弁護士で友人でした。FDPや緑の党よりはるかに支持があるし、ベルリン市の政府を獲得することは可能ではないでしょうか。ドイツの歴史ではSPDが分裂する時は必ず戦争(ファシズム)と絡んでいるので要注意です(初めはローザ・ルクセンブルグやリープクネヒトが第一次大戦に反対して、2度目はワイマール末期に「独立社会民主党」(後の連保共和国首相首相ブラントなど)が設立)。その程度のなまぐさい背景はあるわけです。

http://www.worldtimes.co.jp/w/eu/eu2/kr050712.html 世界日報必死だなw、といったところです。ただグレゴール・ギジはユダヤです、CDU議員の反ユダヤ発言に同調してドイツ連邦共和国国防軍特殊部隊の現役のキンケルギュンツェル将軍ユダヤ共産主義を生み出した犯罪民族だとのたまわって追放されたのは今世紀のことです*1*2*320日リンク他追記訂正)。

 追記(20日)

 私はテレビで見た記憶で書いたので、CDUの議員の発言がユダヤ人を(ロシア革命の担い手として)犯罪民族と呼んだのであり、将軍はそれに賛意を示したという基本がきちんと書けませんでした、どうもすいません。
 ただこの過程で気になったのは、ネット上にベリタを例外としてオリジナルの記事としてこの事件についての記事(個人ブログと転載ばかり、リンク先の方々ありがとうございます)が残っていないことです。ネットの危うさというのを感じました。

 もう一つ、もっと問題なのはネット上でナチスマジックワードが、「ユダヤ・ボルシェヴィズム」(ボルシェヴィズムはユダヤ的な体制であり、文明の脅威であるという思想を示すフレーズ)だったという基本中の基本が(匿名掲示板などはきちんとチェックしていませんが)触れられていないことです。この二つの「敵」の結合を思想の基本に取り込んだことがナチスの成功を助けました。国防軍、ユンカー、経済界、教会、中間層、労働者、失業者などの多様な勢力をまとめ、さらに戦時体制を作り、大戦を遂行してホロコーストにいたるまでこの言葉がマジックワードとして連呼されました。この言葉は、反ユダヤ主義植民地主義的人種主義だけでなく伝統的な東欧人差別意識反共主義、などに訴えてナチス体制に支持を結集させる作用を果たし、ナチスの行った東部戦線での「絶滅戦争」を支えました。この言葉は東欧やソ連に住む人々を劣等人種(ウンターメンシェ)とするために使われ、ソ連を文明の脅威として規定し、ドイツのソ連侵攻はこのようなイデオロギーを基盤にして行われました。ホロコーストはこの「絶滅戦争」抜きでは存在しえませんでした。

 ですから、彼らの発言はナチスの基本思想そのものが生き残っていることを示しています。ユダヤ人(イスラエル)に対する問題だけを強調する(パレスチナからアプローチする人を含めて)方々はそこを失念している、現在でいえば単なる排外主義や(イスラムであれ、中国韓国であれ)差別主義だけでは、ファシズムは成立しないということです。ですからあえて書きます。ちなみに私の立場は「ファシズムを批判して、資本主義を批判しない人は、牛を殺すのはいやなのにステーキは食べたいという人と同じだ」(ブレヒト)です。なお、私はファシズムという言葉はかなり厳密に定義して使っています。「全体主義」という(歴史学ではあまり使われない)言葉は使いません。詳しくは19日の書き込みやエントリーを参照ください。


http://www.cgs.c.u-tokyo.ac.jp/symposia/s_2004_03_27.html

http://www.cgs.c.u-tokyo.ac.jp/symposia/s_2004_09_05.html
 どちらもジェノサイド研究シンポジウムの記録です。参考にお願いします。ちなみに、石田勇治さんが今年NHKのBSでドイツの歴史教育についての小特集にでました。最初に東独(DDR)での教育が悪かったという趣旨のVTRが流れたけれど、その後は一切、誰もそのようなことは語らなかったので、16年も経ってもまだネオナチや否定主義を東独の教育のせいにするのは辞めて欲しいと思っていたのでちょっと感心しました。(同じウェブの中ですが間違えてリンクしていたので少し変えました、トップはここです。)*4

ロンドン警視庁

 さっきテレビで見て唖然、間違っていましたですことじゃないでしょう、警察を弁護するなら1回撃ち殺されてみてにしてね。

 私は演劇にかかわって以来「悲劇」という用語は悲しいことでした嘆いてから忘れましょうという意味だと受け取っています*1*2

(追記25日・その後の反応・近代悲劇の定義)コメント欄より転載他。

>「悲劇」という表現が早々に出てくるあたり
 私は近代の「悲劇」というのは、世界に存在する悲惨を世界にとっての必然、登場人物にとっての偶然として示して、そのようなドラマを見た観客が「世界の悲惨」を認識したつもりになってカタルシスを得ながら自分が「悲惨」でないことに安心するというたちの悪い娯楽だと思います。

うーん、銃を持った人間から逃げるといけないようですね(スラムで育ったブラジル人としては当然なようですが)、誰か言ってるだろうけど色が黒いのもいけないのでしょう、もし本当に自爆を防ぎたかったらなぜそれ以前に尋問しなかったのかなぞですが(バスに乗ったりしてる)、しかし、ブラジルに関するある程度知識からすると、どちらかといえば英国(テレビで見る限り日本も)がブラジルのようになってる気もする、目の前で武器を持たない人が撃たれて撃たれたほうが悪いなどと平然と発言するというのは「ブラジル的」ではあります(アムネスティでも調べてください、それに貧富の差の大きさという点でブラジルは一貫して世界最先進国です)、これは世界が平等になっているということなのでしょうか。*3

 私の悲劇の定義が、さまざまな事態の責任を個人に帰する「個人化」や確率的に社会を捉えて統治する「環境管理型権力」など、「ネオリベ」の手法と妙に合致することに気づいたんですが、とくに意識したわけではないのでどうも気になります。

[social][web]新聞にのってたことを。(28日追記)

 東京新聞にのってたバックラッシュがらみの記事について掲示板に投稿したらエントリーに育ちました。上は新聞の記事です。しかし、よくこんなあからさまに本音をとは今でも思います。

http://www.tokyo-np.co.jp/00/tokuho/20050725/mng_____tokuho__000.shtml

http://homepage.mac.com/biogon_21/iblog/B1604743443/C1028182794/E2044497246/index.html