ロンドン警視庁

 さっきテレビで見て唖然、間違っていましたですことじゃないでしょう、警察を弁護するなら1回撃ち殺されてみてにしてね。

 私は演劇にかかわって以来「悲劇」という用語は悲しいことでした嘆いてから忘れましょうという意味だと受け取っています*1*2

(追記25日・その後の反応・近代悲劇の定義)コメント欄より転載他。

>「悲劇」という表現が早々に出てくるあたり
 私は近代の「悲劇」というのは、世界に存在する悲惨を世界にとっての必然、登場人物にとっての偶然として示して、そのようなドラマを見た観客が「世界の悲惨」を認識したつもりになってカタルシスを得ながら自分が「悲惨」でないことに安心するというたちの悪い娯楽だと思います。

うーん、銃を持った人間から逃げるといけないようですね(スラムで育ったブラジル人としては当然なようですが)、誰か言ってるだろうけど色が黒いのもいけないのでしょう、もし本当に自爆を防ぎたかったらなぜそれ以前に尋問しなかったのかなぞですが(バスに乗ったりしてる)、しかし、ブラジルに関するある程度知識からすると、どちらかといえば英国(テレビで見る限り日本も)がブラジルのようになってる気もする、目の前で武器を持たない人が撃たれて撃たれたほうが悪いなどと平然と発言するというのは「ブラジル的」ではあります(アムネスティでも調べてください、それに貧富の差の大きさという点でブラジルは一貫して世界最先進国です)、これは世界が平等になっているということなのでしょうか。*3

 私の悲劇の定義が、さまざまな事態の責任を個人に帰する「個人化」や確率的に社会を捉えて統治する「環境管理型権力」など、「ネオリベ」の手法と妙に合致することに気づいたんですが、とくに意識したわけではないのでどうも気になります。