ネグリはポール・マッカートニーである・追記30日

http://d.hatena.ne.jp/NakanishiB/20080304/1206398916
 これの続きです

 http://blogs.yahoo.co.jp/isikeriasobi/52684138.html

 というわけで追加しそこねてたリンクを。要するにスティグレールは有名人(スター)ではなかったからというのが正解のようです。ついで書けば中国(イスラエルでも)はスター(大国)だけどブータンはスターではない。だから前者のシュールさはネタになっても後者のシュールさはならない。そう書いている私自身がキアロスタミアメリカへの入国拒否は知っていても、バフマン・ゴバディの入国拒否は知らなかった。もちろんキアロスタミはスターです。*1
 http://www.ryokojin.co.jp/tabicine/waga_kokyouno_uta.html
 「マルチチュード」についてはかつて「マルチチュード禁止」という秀逸な警句を発した人がいました。私から考えればこれはマルチチュードは存在するからこそですよ。世界中の「ネウヨ」が大方同様の行動をするのを見てください。中国は先進国ではないのにです。いや国内だってまるで状況の違う人々が「普通でない人」やスターやマスコミへの嫌悪では一致するのですよね。それゆえ彼らの存在に依存している。かく言う私も石原慎太郎都知事閣下についてちょっとはそうだったりします。この意味で「マルチチュード」は存在するからこそそれを語れないわけです。なぜならそれは我々であるからです。これはブータンと日本が同じ近代国家であるのと同様です。我々は「先進国のパスポート」や「住民票」や「学歴」や「親のすね」や「ネットへのアクセス」の有無がどのような断絶を生んでもそれが存在しないように(正確には存在することが「仕方ない」ように)しようとするのです。このような否認の行為もスターへの依存とともにどちらも我々が「同じである」、つまり「マルチチュード」であることを確認しつつ拒否するものでしょう。そしてこのような行動の中に我々が同じ「人間」であるということが裏返しになって貼りついています。だとすれば、スターの不在はもう一度そのことを曝すでしょう、ジョンレノンじゃなくてポール・マッカートニーでも。正確にはそうしなければいけない。それは私自身がフォアマンの上演のタイトルをもじれば「小泉は退場した、私の生は空虚だ」という状態になっていたからです。それもそろそろ何とかしないと。でも、このエントリーはネグリの「マルチチュード」と何の関係もないな(^_^;)。*2 
*3 *4
*5

 http://www.negritokyo.org/geidai/

 追記・30日

 わざわざ一連のエントリーを紹介したのは自分でも微妙でした、要するに問題になるのは先進国のパスポートを持っている人なのですね、上に挙げた名前ならスティグレールジョニー・サンダース(ブクマで教えてもらうまで知らなかった)ですね。彼らはともかく先進国のパスポートを持っている上に何もしていない立場から書くのは微妙ですだから自分でも意味不明な文章になっちゃう。やはり我々はゴバディですらないんだよ(キアロスタミでもないが)。だからスターには意味があるんだよ、スターをもてはやしてないから(あるいは自分はスターでないからw)えらいってへぼすぎる妄想だよ。またもじれば「この小泉を生んだ母胎はまだ生きているのです」。紹介したエントリーは単純にネグリについてのものではないはずだし、それを無理やり自分の文脈に落とし込んだけどこれはもちろん私の責任。

 ブータンのことはこっちのほうが関連が深いか
  http://d.hatena.ne.jp/Domino-R/20080325/1206472324