『エンジョイ』(ラフスケッチ)・23日再追記・再修正

 ろくな年じゃなかったけど、最後に凄いのが来ました。えー、もー、これは凄い上演です。昨年の『目的地』の完成度が高すぎたので、どうなるんだろうと不安になっていましたが、よくここまで。師匠、これを見ないのはやきがまわった証拠です、「東京演劇」(師匠の造語です)は「万事快調」ではありません。

 チェルフィッチュの『エンジョイ』は現在『新国立劇場』小劇場で公演中ですが後二日しかありません。とりあえずリンクします。

http://www.nntt.jac.go.jp/season/updata/10000119.html

 後はネタバレ、ネットの調べもいい加減で眠いけどとりあえずのいいっぱなしの感想を。ホントは一週間前に行くつもりだったんですが、調子が悪くてまたもぎりぎりになってしまいました。それに私は新国立劇場は大変相性が悪い。*1 *2
 で、今回もきつかったのですが、這ってでもいけという忠告も受けたし、中原昌也さん(実は80年代パフォーマンスの最後の担い手だった)も見たみたいだから、行ってきました。とりあえず、まさかここまでいい上演をするとは思わなかったということに尽きます。『目的地』とはまるで違った構成で、明らかに別のことをやろうとしてそれがはっきりわかる。政治性のさらなる導入(非正規就労者の問題)は伊達で述べられているのではないし、それが上演を根底から規定している。誰の上演についての誰の言葉か忘れたけれど、「絶望的な衝撃で打ちのめされる、にもかかわらずとても気持ちがいい」というのが当てはまります。

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 元々、チェルフィッチュの舞台はその超口語演劇やだらだらした身体という評価にもかかわらず、極めて綿密に統制された身体によってつくられるものです。これによって海外の一流の上演のように、観客から距離を持ったモダニズム的強度を持つ舞台空間を作るわけです(成功すればですが)、同時に扱う対象、その手法と演劇のおかれている条件により現代日本という位置の縛りを強く受けます。それゆえ、極めて自己完結した空間になってしまうわけです。その上演では常に外部の処理が問題となるわけです。さらにイラク戦争を背景にした『3月の五日間』の初演の成功も常にこのことを課題とさせる原因だとも言えるでしょう。

 『目的地』はそのようにして構築された空間にいかに外部(の不在という状況)を入れるか極めて洗練させて追求したものといえるでしょう。郊外のニュータウンという空間で、妊娠した夫婦を中心として展開される上演は、映写されるテキストの導入により、他の出来事や、願望、ナレーション、戦後史を違和感なく(ということは内部のものとして)導入し、我々の住む社会をそしてそれがもつ閉鎖性ときしみ、不安の存在を否定的な手法で提示しました。

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 さて今回の上演ですが、正面に映像を映す大きなボードが釣り下がり、その前にマンガ喫茶の本棚を模した〈ただしその部分は客席からは見えない〉オブジェが左右にあります。どちらも向こうにいる人には足だけが見えるようになっています。真ん中には大きな四角い穴が開いており正面に向けて下り坂になっています。ここで基本的に俳優は演技します。映像を写すカメラは基本的に役者たちによって操作され、舞台の内外あちこちに移動します。設定はリンク先を参照してください。主に30歳のフリーターたちと一回り若い人々に分かれています。

 第一幕は30になった三人組が一人がバイト仲間の彼女と別れて若い恋人を作ったのではないかとどたばたする話、第二幕は若いフリーターたちが今度は前の3人組について話し、マンガ喫茶に寝に来るホームレスへの対応の溝が浮き彫りになります。さらに恋人を作ったといううわさの男のビデオへの独白が続きます。第三幕は、彼の元恋人〈ちなみに派遣社員という設定です〉が出てきて、男がマンガ喫茶でサラリーマンの旧友を見かけたということに端を発する二人の別れの内情が展開します。第四幕は若いバイトが恋人と一緒に、新宿駅で問題の若い女性が別の若いバイトと抱き合っているところを見ます〈二人は幕の後ろ〉。最後は幕の後ろで二人がしゃべる場面が写って終わりです。

 実のところ、かなりえぐい話です、一幕では3人のホモソーシャルな関係が伺え彼らの年齢へのこだわりの女性差別性とそれに女性が気づいていることが巧みに表現されます。二幕での若いフリーターたちの無邪気な残酷さ、男のドツボにはまる様子はかなりつらい。三幕はいうまでもありません。そしてラストときたら…。ストーリーは基本的にストレートですが、一つ一つの問題がズレながらより深刻なものに置き換わる展開は見事です。

 『目的地』のニュータウンという枠組みはマンガ喫茶になります。注目すべきは穴という舞台内の舞台が設定されていることです。上下のある坂は巧みに各人の関係の違いや距離を表現します。それは同時にそこに働く力の存在を示します。実はこの穴、はっきり言うと、新宿西口にあるあの奇妙なオブジェのネガなのです、このオブジェがホームレスを排除するために作られたのは有名でしょう。ですからこの穴は私たちの〈私たちががそうだと考える限りのまっとうな〉社会なのです、そしてこの装置はそのように上演内で機能します。その舞台内舞台の設定が変えたことは例えば映像の意味です。『目的地』においてあくまで上演内に組み込まれていた映像は、ここでは機能がかなり変わっています。映像は舞台の内にいるもの(と同時に観客)の目に映る「何か」なのです。それは舞台の表と裏の間にあることで彼ら(私たち)にとっての「世界」の表象となります、それは時に彼らに見られ、時に無視されます。

 例えば、フランスのデモの映像です、二幕ではこれは「ミズノ」の語りとその映像から見事に繋がっていきます、しかし三幕ではそれは背景に過ぎません。そして最後に唐突に例のオブジェが写ります。私の考えでは三幕はこの上演の中心というべきところです、二人の厳しい関係と抑圧が舞台にある一方、映像は常にずれています。それはぼけており、あるいは足し踏みしか映さず、そして無視されます。これが示唆するすことは明らかでしょう。二人でいることの困難とそれを強いる力でありであり(役者は実は3人ですが)、その帰結なのです。それだけでなく、三幕はチェルフィッチュ的とでも言うべき語りや身振りが徐々に抑えられていく〈とはいえそれはきちんと貫徹している〉静かで重苦しい幕です。

 四幕は一転して本来のチェルフィッチュ調です、「シミズ」の恋人のハイテンションはおもしろい、彼女は実は年は三幕の女性と近く、そのネガのようです、親元にいるというのも微妙ですし。そこから、映像に移ります、この二人のイチャイチャはすごいです。照明も色とりどりになりますw、。彼らの無邪気さの圧倒的な提示はそれまでの上演の帰結となることでぞっとするような楽しさと迫力をもたらします。最後はホームレスが通ったりするわけですが、レゲエが流れるなか「おしまい」になったときは私は呆然となっていました。状態は先に書いた通りです。

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 私はこの上演から、2002年に日本で上演された、ベルリナーアンサンブルのクラウス・パイマン演出『リチャードⅡ世』を思い出しました。リチャードⅡ世が、傲慢と軽率な行動の結果破滅し王位を失い殺される戯曲のこの上演は、西ドイツの俳優と東ドイツの俳優の混成で上演され、演出によりどちらもはそれぞれの演技法をあえて強調したままままでした。最終シーンで、リチャードの暗殺を嘆き、下手人のヨーク公に責任を押し付けた上で罪を償うために聖地巡礼をしようと演説するるホルンブルック〈ヘンリー4世〉の役は東ドイツ出身の俳優で、ブレヒト流の登場人物から距離をとった演技はそのままホルンブルックの弁舌の空虚さと彼の正義の欺瞞とぴったりと重なったものになって〈さらにはその結果起こる反復としての凄惨な「ばら戦争」も重なる〉提示され舞台にぞっとするような「現実」を出現させるわけです。ストーリー・構成上の意味が、劇場の外と結びついた演技自体によって露呈するという構造は共通するのではないかと思うのです。このことは語り手と役柄の変換のこれまでに比べての限定化とも関係するでしょう。

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 この上演は徹底的に上演された新宿に拘って作られたものでした、それは「新国立劇場」で上演されたことと明らかに関係しています、都庁もすぐ近くです。そういう意味でここで上演すること自体への批評だったともいえるでしょう。とはいえ、それは後で気づくのですが。これが「生産的摩擦」を本当に引き起こすのならいいのですが…。

 まあ、錯綜した関係や抑圧、特に性別による非対称や、構成/ストーリー上の境界設定の問題など触れるべきことは多く、それはテーマと連動しているのですが。とりあえずこれくらいで。なにより、果たして「成功した上演」だったのか「上演に成功する」とはどういうことなのかということがあります。これについては私は実はかなり甘いですから(よく叱られます)。まあ、かなり妄想に近い話ですいません(^_^;)。

フリーターにとって「自由」とは何か

フリーターにとって「自由」とは何か

 原作ですw

限界の思考 空虚な時代を生き抜くための社会学

限界の思考 空虚な時代を生き抜くための社会学

 オブジェのことについてとりあえず 

 追記・夕方

 しまった、個別エントリー化するのを忘れていた。ついでにいくつか補足を書きます、私が冒頭近くで書いた感想、より詳しくは『見終ると絶望的な衝撃を受けるが、同時に鼻歌が出そうな喜びが続いた』といった感じだったと思いますが、これはトニー・クシュナーが、リチャード・フォアマンの演出によるブレヒトの『肝っ玉おっ母とその子どもたち』を見たときの感想です、これをきっかけに演劇を始めたそうです、シアター・アーツ第5号にインタビューが載っています*3、ただいま師匠に貸し出し中で手元にはありませんので正確な引用はできませんが。ちなみに、クシュナーはスピルバーグの『ミュンヘン』の脚本も書いてますが、最近ドラマになって多くの賞を受けた、記念碑的な戯曲『エンジェルス・イン・アメリカ』で有名です*4          
*5
、フォアマンは70年代からのアメリカの非・ブロードウェイ演劇の第一人者です。ブレヒトアメリカにおける後継者という事で思い出したのでしょう。

反響マシーン―リチャード・フォアマンの世界

反響マシーン―リチャード・フォアマンの世界

 オブジェについてですが、パンフレットの見開きに新国立劇場の栗山民也芸術監督の文章と並んで写っています。『限界の思考』p288〜9を少し引用します。

 北田・(環境管理型権力について)象徴的なのは、新宿駅西口通路に作られた、よくわからないオブジェのようなものです。妙な形をしていて、座ろうにも座れないし、間に体を通すこともできない。要するに、ホームレスの人たちがそこで寝ることや座ること、たたずむことを物理的に不可能にしているわけです。物理的環境やアーキテクチャーを整えることによって、「他行為可能性」を身もふたもなく奪う。他行為可能性がないわけだから、そもそも自由が剥奪されたという感覚を覚えることもできない。(中略)これに抗うのは大変です。というか、どうやったら「抗った」ことになるのか、よくわからない。(略)

 ファーストフード店や西口通路などの「実例」は、あくまでシステムの上っ面を示しているに過ぎませんが、そういったシステムが社会の全体をを覆いつくそうとしています。(中略)何しろ奪われているのは「自由」ではなく「自由の剥奪感」なのです。ミルの自由原理に代表される消極的自由の理念は、基本的に行為者の「自由の剥奪」の有無を問題化してきたのです。大げさに言えば、近代の自由概念そのものが危機に瀕しているといえる。(略)

 おそらく多数の人々は、それに耐えてしまうだろうと、私は考えています。耐えるも何も、自由の剥奪感を剥奪されているわけですから、何の違和を感じることなく快適な環境の中に安住していくことになると思う。

 しかしその人たちも、『エンジョイ』の登場人物たちも、別の形で、肝っ玉おっ母とその子どもたちと同じであるわけです、そのことを示すことが一つの上演の意味だと思うわけです。*6

 なお、私の解釈ではこのような権力のシステムの下において存在する個人が依拠する親密圏に不可避的に起ってしまう軋みが上演のテーマであったと思います。非正規労働は、階級と性が交わる場所である親密圏と直結すると思うわけです、観客はそこでは不正規労働との位置を問われます。ともあれこのような仮説の上演の構造に即しての分析は後日きちんと行うようにする、はずです。

 ちなみに『エンジョイ』のネット上の劇評のまとめと紹介をここでしています。私もまだきちんとリンク先まで読んでませんので読んでみます、ただ一点気になったことを、演劇という枠組みの問題ですが、CUATRO GATOSではかならず上演のはじまりと終わりを告知します。私の解釈ではそのことによって演劇という枠組みの外があることを示しているのです。普通の演劇では普通に枠がありますが、美的強度(上演の自律性)が強いチェルフィッチュではそれは普通には必要ありません。ですから今回の普通の上演のような枠組みの導入は、政治的であるための上演の遂行性の追求の結果だと思います。
*7

http://d.hatena.ne.jp/yanoz/20061220/p1
http://d.hatena.ne.jp/yanoz/20061217/p2
http://d.hatena.ne.jp/yanoz/20061210/p1

 23日・追記

 いやー、こっぱずかしい文章を出してしまいました。最初の文章を書いた時、相当眠かったというのもあるのですが、かなり無茶苦茶です。誤字脱字は当然として、論旨はぽんぽんとぶし、説明は思いっきり不足してるし、話はやたらと脱線するし、前提の共有がまるで抜けてるし。修正したけれどまあほとんど直っていません。先だってのsk44氏による批判(?)で*8、昔の私のやり取りをネタに批判的指摘をされて、それは正しいところもあるのだけれど、一つ付け加えて反論したいのは、このように私は批判においてだけでなく何かをほめる時も極めてひとりよがりだということです(^_^;)。

 まー、そもそも文章が下手なのに、思いついた感想をきちんとした準備なしに、無理やり詰め込もうとしたのが間違っていたのです。しかも、演劇外的なことや以前から考えていることがコンテクストに大幅に含まれていましたから。

 少しあちこちの感想を読んで思ったのですが、私は上演の場面やストーリーを描写するというのがひどくへたくそですね。そんなことする必要がないならいいのですが。あいにく私の議論をはそうしなければいけないので…。しかも別の上演まで必要でw。

 
 他の感想を読んでみて思ったのは単純にいろんな受け取り方があるなーということです。上演を面白いと思うのかどうかはそれとはまたちょっと別なのですが。後は私のような「私怨」wとは別に小劇場に行きなれている人にとって、お客からして新国立というのは違うという感覚があるようです(というか寝てる人を見た話が多い、私には信じられんが)。というわけで、この上演についてはそのうち別の形で書きます(多分)。

 あと上記にからいけるもの以外、気になった感想にリンクします。

http://u-ench.com/fuji2/index.html
 どうにも気になるのは、では「成功する」がということがあるのか(あるいは「作者の立ち位置」が「盲目」で「訥弁」になることにそれ自体で意味があるのか、あえて言えば「うまい」と本当に違うのか)ということです。「成功すること」がありえるし、あるし、あったという前提がないとこうは評価できないのではと。もちろん宮沢さんにはそういえる前提があるのでしょうし、それはこちらが勉強すべきことですが。ただ面白いと思ったかどうかだけかもしれないし。ちなみに、これは全く私個人の意見です。

http://d.hatena.ne.jp/nogoo/20061210/p2
 オブジェ(特にその形状)について載っているので、私のよりずっとわかりやすいと思います。「リラックマ」のことは気づかなかった…。