FAってなんすか?・追記(11・14/15)

 すいません、極めて感情的に書いた文章であまりにも読みずらいので読みやすいよう引用の整理などをしました、最後の追記以外中身は一切(誤字脱字も含めて)いじっておりません

http://d.hatena.ne.jp/sk-44/20061113/1163441532

 id:sk-44さんからの応答がありました。はっきりとした批判ありがとうございます。それにしてもネット上の私のもっとも恥ずかしい過去の一つである、小田嶋さんのブログへの書き込みを直リンされた以上はこちらもきちんと書きましょう。そもそも私は文章を書くのが単に苦手で苦しいのです(悪文ということではない)、ですから「甘えて」上記のような中途半端な応答をしましたが今度はきちんと返します。

 まず第一に質問です。私は上のエントリーで


ただ、こちらにもあのような文章を書く理由はあったのでそれは後ほど書きますが

(さっき書いたのが消えちゃったし)

 と書いています。内情を書きましょう、個々の嫌味のどれが完全に撤回で、どれがそうでないかについての答えを含み、さらに後半の抽象的な部分をもっと丁寧に書いた文章を書いたのです。しかし、それは消えてしまった。ですから非常に簡略化したものをとりあえず載せたのです。「後ほど書きます」はですからその段階で入ったのです。そのことを読み取れなどとバカなことはいいません。しかし、あの大して長くもないエントリーの、一段落の中で「これは完結していない」という含意の文があるのに(さらに書き込みでは本題を明示しました)、私が答えをスルーしたと断定なさる理由をお聞きしたい。あなたの質問の評価はこの断定にかかっています。

 ですから

Dis相手に対する自身の発言の具体的な説明の責すらも放棄し得ると?

 に対する答えは明白です。何度も書きますが撤回すべきことは撤回します。

私と小田嶋氏を対比させるつもりなど毛頭ないですし

 とすると以下の文章は羊頭狗肉の実例ということですね。

1.文意不明瞭

 正直言って前半は意味がろくに取れません、どの文章をさしているのでしょう?。

2.嫌味やほのめかしやあてこすり、しかも内容的にそれで尽きている

 嫌味がそれで尽きない内容を持つとはどういうことか教えていただきたいです。そしてその基準を。


それは貴方が1年前に小田嶋氏に対しては試みている「揶揄をしてしまった理由」の詳細な説明を拝読しての推察です。後述します。もし「まるで違う」ということであれば具体的に御指摘ください。

 どこに書かれているのでしょうか?見つからないのですが。

特定の他人を不快にさせるためだけにのみ文章を綴る人間の気が知れない。

 これは私の発言がでしょうか?小田嶋さんは違います、ですがその他のコメンテイターは人によりいろいろです。いずれにせよ私は「特定の他人を不快にさせるためだけにのみ文章を綴る人間」ではありません。質問ですが、あなたはこの「のみ」をどういう根拠で私に対してお使いになったのですか?

小田嶋氏が感じた徒労とそれでも最後まで貴方に対して尽くされた誠意について、了解しておられますか

 このような質問にどう答えろと?。小田嶋さんにはあの場で答えたとおりです。あなたについては問われれば答えます。

私は大上段な話を貴方にレクチャーしてもらうためにトラバしたわけではない 

 了解しました。私はあなたの文章についていたいくつかの留保のためもあり、あなたがそれほど切実に名誉回復と具体的解答を求めていたとは気づきませんでした。これは私の鈍さが理由です、私が悪いのでしょう謝罪します。ただ、私もそれだからこそ留保をしているのですが。

「あなたの発言はその気がなくともこれこれこうした文脈からはこのような意味を持ってしまうから考えたほうがよい」と、無自覚であれ故意であれかかる議論を優先しない人間に対して説いて無前提で了解されると思っておられるのですか。

自覚的であれば少なくとも了解可能であるとは思います。自覚的であること自体でもう無前提ではないのですから、違いますか?。

老婆心でしょうか

 批判です、この段階で批判するに値する相手だと考えを改めたのです。

「中立を装う」と断定されています。

 ここは迷ったのですが、自覚的であれ無自覚であれ中立に機能するエントリーではないと判断しました。

私は本当に考えないのですよ。

 了解しました。

私はそうは思いませんが

著名論客の発言内容自体に対して自分の見解を示して批判する、という発想はないのでしょうか。

 その必要があればします、実際やっています、この場合は面倒なのでリンクで済ませました。「公正」についてのあなたの判断基準を推測する参考にもなりました。

言説へのフリーライド

 寡聞にも「フリーライド」が肯定的に使われた例を知りません。「ご自由では」などと付け加えるのは余計なことです。

NakanishiBさんのような氏の発言意図に対する断定的解釈を引き出し得る情報が存在するのですか

 ダイエットの部分まで、引用下さりありがとうございます。あれが冒頭にあることで少なくともブログ主のApemanさんにはレスの文脈が伝わるようになっているのです(これを「弾除け」といいたければどうぞ)。あのレスで書いたのは当たり前ですがパロディです。本気の意図の推測なんぞではありません、宮崎哲弥が決してそんなこと書かないのはわかりきっています。しかし、このような動機の書き込み者ははおり、あの発言がそのような連中を結果的には勇気付けるというのが私の見立てです。これを解説したのが、三つ目に書いたレスです。ですから、sk-44さんの懸念は間違いです。さすがに危ういので反省はしていますが。

 小田嶋さんのへの書き込みについては本人のブログに行ってやったのですから別です、この時は小田嶋さんがが自らのバイアスを自覚しているという期待を勝手に持ってしまったのです。

小田嶋氏のブログのコメ欄で貴方が開示している見解と照らし合わせて自分なりには了解しました。

 ではその了解は間違いです、あの時点ではまだ私はきちんと「頽落史観」批判という論点を理解していなかったし、ましてあそこで書いたりしていないからです。

了解したうえで書いているのです

 それはこちらも了解しております。「正義の複数性」の指摘、あるいは「絶対的正義の恣意的乱用の批判」とあなたが記述なさったことは、現実にどう働いたと思うかは別ですが(そもそもフェアに行われたかも疑問ですし、sk-44さんのしきりに強調なさる「事実と価値の峻別」自体の怪しさや、フェアネスそのものの価値負荷性も問題です)。私の理解する1968年派の最低限の共通了解は、そのような言説は(極めて自覚的でも)何度でも現れては正義への疑義になり、最後は実体化している「何か」が明らかになって終るという反復において変わらないということです。そしてそのような閉塞が確立するのが70年代初めなのです。

私の当該エントリについては前半部も読んでおられるのですよね。

かかる要点列記の結果として私は自ら前記エントリの前半部分を引用しなければならなくなりました。


 そこで引用されているような事態を避けようとするときに私が北田暁大を引用して「頽落史観」と呼んだものに陥りかねないのです。私は誰もが(私も、sk-44さんも)、引用されたような態度を免れないと思います。しかし、「頽落史観」に依拠してしまえば、かつてはそうでなかったという想定が「本来性」として機能します(残念ながら「具体性」「公正」ですらそう働いてしまう)、そのことによって「堕落」を排除できると容易に錯覚するのです、そのような危険には最大限警戒的であるべきでしょう。この返答におけるいくつもの疑義で示したかったのは、sk-44さんのこのたびの私への批判にも引用はかなり当てはまってしまっていることです。あなたの「対話論」もまた私との実質的な内容(そのような切り分けが可能であるとして)に関する議論を忌避するように機能しているのではないでしょうか。応答としてはこれが2回目に過ぎない私としては、あなたの規範的裁断に驚きます。もちろん、私にも十分以上の問題はあるし、ある種の「誠実さ」や「「具体性」を私もまた担保にしている、ですから、どのような文章を書いているのかそれなりに慎重に切り分けています。

ゆえに私は以下、貴方の開示された見解の論拠に対してあくまで具体的に問いたださせていただきます

 まずどこにおける見解なのかがわかりませんし、もっぱら小田嶋さんのブログにおける私の振る舞いを元にした批判ばかりが目立ちます。要するに私があなたにやったことを返しているんだというつもりだということでよろしいでしょうか?。

観念的かつ全面的な断定に対しては、問題を分節化したうえで具体的かつ個別的に覆していくしかない

 全くです。では。

 付記・問題のコメントについて

と、『自衛官の官舎にイラク反戦ビラ投函した人達』を批判してらっしゃるのですから、さぞかしApemanさん達の経験に想像力を働かせて論理的にその正当性を否定した上で書かれているのでしょう

 この文章については破綻していますすいません、後に書いた想像力に関するコメントの原型だったのでしょうが。

まさかこちらがその原因を考えていないとどうして憶測できるのやら。そう考えてみたときには。
>「憶測」に過ぎないことを知りつつ「逮捕された当人が逮捕相当の危険人物だったからじゃねーの?」と書くことで自らの目的は達成される
 と同じような言説に思えますね。(2ちゃんと一部の有名人が煽った) 自己責任論と本質はあまり変わっていないようです

 これは言説の効果に関する議論です、結果的に左翼は身勝手だという刷り込みを行ってしまっているという意味です。憶測でも何でもいいから垂れ流す、一応、唐沢俊一の文章への批判のリンクはそのような事をしている有名人の見本としてもつけました。唐沢氏の文章に問題を感じない(感じたのならせめてその上で意味が取れないといって欲しい)のなら撤回する必要もないでしょう。

それ気持ちよくやるブログなんですかね。

 いかにも舌足らずです、ブログを気持ちよくやることが本心だとすれば、その具体的内実がわかりません、ですからこれはもうすいません。

なるほど、その前提が欠けていたのですねあのエントリーは。自律できない人を保護してあげるともとれると。

 これはもう明らかにミスリーディングです、私の発言理由はレイコフの「保守のモラル」の特徴に由来するのですがここでは明らかに書きすぎですすいません。 

全ベての落ち度があると決め付けられた「突撃者」はいい面の皮です。

「突撃者」をあれほど否定できるのですから。

 これに関しては書いた時点では明白にまずかったですね、sk-44さんが「頽落史観」を持っていることを想定して書いたのですから。これに関しては撤回します。ただ改めて考えていただければ幸いです。

15日追記

 私が演繹的で自己完結した議論をしすぎなのは事実です、それと一緒にして私に対するせこい批判を行われたせいで、極めて感情的になって書いてしまいました。誤字脱字だらけです、一定期間の後直します。書き落としたことや半端に書いたことも多いのですがそれも後ほど。それでも最低の補足しておけば。

>私と小田嶋氏を対比させるつもりなど毛頭ないですし 
 とすると以下の文章は羊頭狗肉の実例ということですね。

 私の記事のこの部分は意味不明ですね本当は、

私と小田嶋氏を対比させるつもりなど毛頭ないですし

 あなたが以下でなさっているのはまさにそれでしょう。

ゆえに私は以下、貴方の開示された見解の論拠に対してあくまで具体的に問いたださせていただきます

 とすると以下の文章は羊頭狗肉の実例ということですね。

 とでもなるべきものでした。

 なお、私の「頽落史観批判」(1968年論)は11日付エントリーの

しかるに「正義の相対的な複数性」という見識の実質を中抜きしたメソッドとしての批判作法がいわゆる「ネットウヨ」的な左陣営批判において普及し定着してしまった。

 ここに端的に見られる認識の批判です、少なくともこの「実質」なるものは今ないのならかつてもなかったし、かつてあったのなら今もあるのです(ただし別の変化はしつつある)。正直言ってまだきちんと考え抜いてはいませんが。あなたが名前をあげられた『フェアネスをアンフェアに(=恣意的に)謳い上げる言説』を批判されたとされる方々は、フェアに振舞ったとはとてもいえない方々が混じっています(一名とはweb上で議論して痛感しました)。私は彼らの本質は基本的に文脈を換えることに尽きると思いますから、それが仕方ないとしても、sk-44さんが11日のエントリーで述べられているような、規範としての「公正」や「礼節」あるいは「論理性」「分節化」(13日付なら「具体性」も)の強調は、それを自らの恣意的な根拠化することを招きがちです。私は少なくともそれらが具体的に衝突する場面を問題するからこそ、レイコフのモデルなどを重要視するのです。ですが、

左右いずれかに肩入れしていると判断されたくなかったという理由が大きいです。リスク対策とか以前に、本心としてそうなので。

 このような11日付の記述を見ると、あなたはそのような行為を「公正」で「礼節」にかなっていると思っているのかと驚いてしまいます(これこそが「恣意的な根拠化」の徴候では)。しかも、私の「他者への批判を意図した文」の問題点として散々「印象操作」を挙げられた(その内実については昨日回答しました)。あなたの「公正さ」が具体的にどんなものかは今度の騒動で思い知りました、それが昨日のエントリーの「了解しました」ということです。それが「具体性」というものでしょう。そこで質問しますが、観念論的な決め付けという「レッテル貼り」のやり口に対する反論以外に(それに対してきちんと答えの上ですが)、具体的にあなたの議論への批判をお望みでしょうか?。