『共産主義者』の孤独w(追記)(修正・5日)(追記7・2)

 うーん、私は、例えば、エスピン-アンデルセンの福祉レジームの3類型に影響を与えるようなモラル的基礎についての話を書き込んだつもりなんですがね(本当ですよw) (http://d.hatena.ne.jp/dojin/20060403#p1)。3類型は歴史や、制度的枠組みに影響されるとはいえ、とりあえずある時代(戦後)に経済的に成立していた。で、アメリカのリベラルたちは、自由主義ジームではなく、社会民主主義ジームを志向していたと思うのですがね(それが後から名付けられたとしても)。彼らの失敗の一つは、レジームが成立する様々な条件を整えることをできなかったこと。でも、あくまでこれらは選ぶもので、自由主義ジームを支持するという意味で福祉を支持するのが「左派」なら、フリードマンだって、レーガンだって、ピノチェトだって左派だわw。そういう意味では、「あなたも僕も左派」ってところですか…。

ポスト工業経済の社会的基礎―市場・福祉国家・家族の政治経済学

ポスト工業経済の社会的基礎―市場・福祉国家・家族の政治経済学

 まあ、私は某所で共産主義者と呼ばれましたが、「左翼業界」(?)では残念ながらそう見てくれないわけです。困ったものですw。これは元々日和見的な私の性格以上に、極左と保守には共通点があるという私の見解によります。例えば、東南アジアではポルポトスハルトも大量虐殺という手段で「階級の敵」とか「共産党員」とかレッテルを貼った「敵」を抹殺してますね、まあ後者は経済成長を達成したわけですが。とはいえ、その理由の説明はもちろん全体主義理論のようなインチキなものではありません。以前も取り上げた*1レイコフの理論では「保守のモラル」がかなり強く(全世界で)「左翼」に入り込んでいるからです。私はこれにどう解釈し対処したらいいのか(長らく)思案中です。とりあえず、私がジジェクを嫌いなのは半分はここに完全に無頓着だからです。

 しかし、レイコフによる「保守のモラル」の特徴は、善と悪を峻別し、(個人の)内部的悪、外部的悪に対する「モラル的強さ」を最重要視することにあります(これはさらに展開すると本質的規範とみなされたものからの逸脱の峻拒です)。この特徴がモラル的に弱いことをそのまま悪とし、「排除」を生むわけです。私が昨年ちょっとした驚きとともに知ったことは、「モラル的保守」の人であっても自分が「モラル的保守」であるということ知ることができるということです。それは対話の可能性となるでしょう。そうせずに「共産主義」(この場合は非科学性も意味する)の徴候(それが事実であっても)を見つけ出して自分勝手に納得してしまうのは愚かなことでしょう。違ったモラル(立場)が存在する、そしてそこから現在取りうべきことの解答が(モラルによって)複数あるという結論を導き出す可能性がある。そのような認識が強いる認知的不協和に耐えられない「弱さ」を感じるのですが。ただ、多くの人がそのような「弱さ」を共有しているのが今の日本じゃないでしょうか、その意味では「これでいいのだ」w。

 追記:ふと気づいたけれど問題の文章自体は引用だから、その引用者の方が真意と予備知識を同じくする必然はない。この意味では未だエントリーの問いの最重要な部分は答えられていないわけですね(もちろん問うた人の真意はわからないのですがw)。

比喩によるモラルと政治―米国における保守とリベラル

比喩によるモラルと政治―米国における保守とリベラル

 レイコフはレーガン以降のリベラルの敗北を反省するためにこの本を書いたわけです、この私が書いたのではない要約も参照。http://homepage.mac.com/biogon_21/www/lakoff.html

 http://www.rockridgeinstitute.org/
  レイコフが中心になっているページです。

追記

 とりあえず、別の書き込みのリンク*2

 前回の追記について解説します。私の書き込んだエントリーではある方の文章を、別の方が引用しているのに対してその意図に疑問が呈せられたわけです。そこに私はある解釈を書き込んだと。ところで文章の「本来」の筆者が意図を説明しても(例えそれが納得のいくものであったとしても)、引用された段階でそれはコンテクストや(本来の筆者の)真意を離れてしまっているわけです。私が本当に問題にしたいのはここなのです。このように言説が流通することをどう考えるべきかです。引用者の文脈からはむしろ私の解釈に近いものを感じます、つまり自分の基本的態度の確認としてそれを引用しているということです。自分の立場について率直に「唯一の正しい立場」ではなく、ある「偏った」(注記すれば単に他の考え方の人もいるということです、私は彼よりはるかに偏っています)考え方に基づいていると自覚しているわけです。

 それに対して「オリジナル」の筆者による説明についての感想が私のエントリーの最初の中心です。上記からわかるように、「言説」は一人歩きします。それに対して、「真意」を説明することは本人の弁解としての一定の意味以上は持ちません。まして、それがどうにも怪しげでは。私はレイコフの「モラル理論」を持ち込むことで、そのような言説(思想)の発信と伝播システムをある程度説明しました。そこではこの引用は「保守のモラル」の共有という根拠に基づいているのではないかと考えたわけです。

 しかし、オリジナルの筆者の「説明内容」はこのような引用されたことの意味に対する顧慮を全くしていないものです。むしろ、自分の「言説」が他の解釈を許さない内容であることに固執しています。が、科学の教科書ならともかく、あの文章が別のコンテクストで解釈され伝播しうることは自明です。そのようなことを無視する態度の中に強固な「保守のモラル」とそれを持っていることに対する自省の欠如を私は見たわけです。代替案を広く議論するようで、実はモラルと「科学」と具体的現実の分別の欠如によりかなり狭い「正しい代替案」しか認めないということに実質はなってしまっている。しかし、問題の中心はそのような態度は「弱い」人々にとってはむしろ受け入れやすいものだということです。なぜなら、そのような人々も、正しい代替案を持つと自負する人もどちらも「中道」として自らを認識するからです。その意味で、現在の日本ではまことに受け入れやすい立場ということになるでしょう。「日本的な、あまりに日本的な」というところでしょうか。この問題についてはこれまでいくつも書いてきました。長々、書きましたが、これは北田暁大氏の哂う日本のナショナリズムの最後の注で述べた「現実主義」とはこういうものではないかという私の試論です、もちろんもっとどうしょうもない形態はいくつもあるでしょうこのリンク*3は一見正反対に見えますが、本質的なものと関わりあいたいという渇望を伴う「ロマン主義」と「シニシズム」は親和的だというのが『嗤ナショ』の結論です。

嗤う日本の「ナショナリズム」 (NHKブックス)

嗤う日本の「ナショナリズム」 (NHKブックス)

 いくつかリンクです、三つ目は需要面ということですw。*4 *5 *6

追記・7月2日「ご意見募集」

 コメント欄におかしな方々が参りました。私に説教がしたいようなのですが、困ったことに、私が何度頼んでも、ご自分ではっきりと見たと仰っているはずの、私の『醜態』の載った具体的なブログとコメントを明示してくれません。こちらの問いにはほとんど答えない、書き込み相手のブログは読まない、コメントも読まない(理解できない?)。私の『おびょーき』は確かにありますが、この方は「優等生」の『おびょーき』に加えて別のも持っているようです。私のコメントの確認の手間も省いたようでちょうど良い例が書き込まれたのでエントリーに載せます。

 私はコメント内で、昔見かけた決め台詞、『全面的敗北宣言と解釈する』を引用して使ってみたのですが、ここから私の「病気」を診断してくださいました。その前の福音書の引用と合わせて、明らかに不適当な例と思われるので、その旨と出典を伝えたところ次のような返事が来ました。どうもまともに調べなかったようです。

通り 『URLは自分でわかるのでは(笑)。
さてここで例証されているように、この病気の人たちの議論が滑稽なのは社会的コンテキストのメタ視線が混合です。社会的コンテキストに通じているのは大変「ご立派」ですが、社会学な人々がネタ合戦に終始しているだけなら失笑を買うだけですが、NakanishiBさんのような非アカデミック(?)な方までそういうことをするようになっているとなると(某ブログへのコメントも同様)、「お病気」も随分進行しているものとご推察いたします。「グロテスクな教養」の現在進行形がここにあるんでしょうね。こういう社会的コンテキスト読みに長けた「優等生」君は、必ずや近い将来「サード・オーダー」へと昇天されることでしょう。』(2006/07/01 23:49)

前略〜衒学趣味はありませんが、「表面に留まることは高度なエートスです」(←これ引用)。
ということで御検討のほどを。』(2006/07/02 00:30)

 ちなみに私の提示したURLはこれです

http://d.hatena.ne.jp/kemu-ri/20060625/1151176343 
 ちょっとわかりづらいのでまずかったと思っています。

http://d.hatena.ne.jp/kemu-ri/20060625
 こちらははっきり読めます。

 「通り」さんが確認の手間を省いたおかげで実に興味深い類似が、『全面敗北宣言をしたものと解釈する』をお使いになった方と「通り」さんのコメントに表れたように思えるのですがいかがでしょう?。そのような類似を認めるか、また類似がどのような原因で起り、どう名付け特徴付けるべきかご面倒ですが皆さんの意見を募集します。

 なお、具体例も待ってまーす(^^ゞ。