「では、私の隣人とは誰ですか」(追記7日)

 このような論争*1*2があったとここ*3で見つけました。きちんと書く暇がないけど思ったことをいくつか。「身内の範囲が違うのですね」という言葉の意味がまるで理解されていない(違っている)こと、医者同士の議論だけに恐ろしい。よきサマリア人の譬話(ルカによる福音書・10・25〜37)が状況設定に対する理解と自己をどこに位置づけるか抜きには意味を持たないことは自明です。キリスト教会が2000年間間違ってきて、ホロコーストが起こった後でようやく広く意味が理解されるようになってきたということだから特に驚くこともないわけでしょう。「隣人」は現代では「人間」という用語に大体できる。そういえば、カンバスで解体社のS・Sさんが海外でアガンベンを読んだ時は良く実感できたのに、日本では実感できなくなったと語ったのと同じことがこの論争の深部にはあるのでしょうね(私にとってはアガンベンや市野川容孝氏(早く「社会」を出してくださーい)の問題提起は確かにある程度「実感の伴わない理念」ではありますが、こういうときに偶然「実感できる」わけです)。
 
 
 「カノコト」の上演から私が受けた印象はこのような「実感」の不在とそれに対する対応の不可能性の再確認であったと思います、それ以上をするためにいかにして上演を組織できるかはこちらの問題として共有できると思います。さらに、シャウビューネについての私のエントリー*4*5で検討した問題や小泉の問題とも重なっていると思います。

 
 もうひとつかつてクルーグマンを読んでいたとき、合衆国の階層移動の大きさを示すとして提出された、低所得層の一定期間の後にどれぐらい高所得層に移動しているかのデータの扱いを批判して、高所得層に移動した人の多くが最初の調査時に実は大学をでたばかりで所得の低かった高学歴者だと指摘していたことを思い出しました(どの本に入ってた文章か忘れた)。

 
 最後にこのような専門集団内の「本音」が公開の場で露出されることの問題です。やはり、これはネットのような環境がもたらしたのではなく、そのような意識や社会の変化が先に用意されていたと見るべきでしょう。「実感の伴わない理念を振り回すことへの違和感」=実感主義は北田暁大氏が「嗤ナショ」p192−196で「純粋テレビ」と「2ちゃんねる」のキャッチフレーズ的共通点として指摘したものですし、彼の言葉で言えば「現実主義」という形で「国民的共通了解」として成り立っているように思います。もちろん、現実に現代の社会を検討すればそのような共通了解は維持不可能ですから彼の本はそれを可能にするイデオロギー装置の解明の試みのひとつだと思います。小泉なる存在はそのような装置に最適な人材ではあると思います*6、彼の存在が不要になる時は遅すぎるということになるのでしょうが、とりあえずこれについてはまたあとで。かつて「あかね」*7に張り出されていた名言を引用すると、「君の青春は続いているが、君の人生は終わっている」という言葉が小泉を必要とする人の多くに対する警告になるでしょう(他人事じゃないけどさ)。とはいえ、もうひとつの(潜在的)支持層もいるわけです*8

開かれ―人間と動物

開かれ―人間と動物

 
身体/生命 (思考のフロンティア)

身体/生命 (思考のフロンティア)

*1:http://childdoc.exblog.jp/2226282/

*2:http://d.hatena.ne.jp/fujipon/20050904

*3:http://d.hatena.ne.jp/mojimoji/searchdiary?word=%2a%5bdisability%5d

*4:http://d.hatena.ne.jp/NakanishiB/searchdiary?of=10&word=%2a%5bplay%5d

*5:http://d.hatena.ne.jp/NakanishiB/searchdiary?of=5&word=%2a%5bplay%5d

*6:http://blog.livedoor.jp/easter1916/archives/50057758.htmlは最近読んで面白かったエントリーです、北田氏や佐藤氏と接続可能でしょうが、前半はこのエントリーの主題と絡んでいることにも気づいた

*7:http://akane.e-city.tv/

*8:この辺りについては、8・11や8・20のエントリーやコメントも参照してください