ちょっとだけまた、ファシズム≒小泉(23日)
大衆の特徴というのは「自分は大衆ではない」という意識にあるわけです。そのとき、「大衆」が「知識人」と呼ばれても同じなんです。そして大衆というのは「本質」=「本来性」を失った人なわけです。で、この「本来性」も別の用語で置き換え可能なわけです。それでもってこのような本質主義と多様性の擁護はまるで矛盾しない。これ*1・*2は、「最終決定」といった(思想史的に危険な)用語を無防備に使ったりいかにもつたないし、あまりも類型的な本質主義にそまっていてわかりやすすぎるのです。(このような意見への批判者のシャンタル・ムフ、私は彼女は「政治」の不在を単純に批判しているのではなく自由主義的前提による「政治」の消去のもたらす本質主義(内在主義≒ファシズム・ナンシー)化を批判していると思うのですが、もやはりそれで批判されているのは興味深いし厄介です)。しかし、こういうわかりやすさは所詮現在起きている「事態」をわかったつもりにさせるだけの気がします、4年前ならその説明で満足しただろうけど。まー、私は前回も結局はそう書いたわけだけど、全く思考が進展していないな。そこはもっと具体的に考えないといかんのでしょう。少なくとも平然と「大衆」になることはもう許されないでしょう(ということは「大衆」であることを自覚せよということですが)。やはり、急がば回れでしょうか(だけど事態は常に切迫していることを忘れたからこそ現在困っているわけですし、うーん)。
- 作者: シャンタルムフ,Chantal Mouffe,千葉真,田中智彦,土井美徳,山田竜作
- 出版社/メーカー: 日本経済評論社
- 発売日: 1998/04
- メディア: 単行本
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*1:http://amrita.s14.xrea.com/d/?date=20050822#p02
*2:http://d.hatena.ne.jp/sivad/20050822、問題のエントリーの主論点についての参考記事へのリンクがあります