火の顔・シャウビューネ*1

 いや評判悪いですねー、ネットの一部ですが。まあ、師匠も否定的だったよなビデオ上映のとき、でも師匠はストーリー観ないから。

 で、私の意見は明快で、「ノラ」よりずっといいというものです。まず、戯曲自体が良く出来てますよね。観ていれば、クルト(弟)の心の動きとオルガ(姉)のそれがいかに対応しずれていくがきちんと分かる。はじめに不安定だったクルトがオルガとの関係以来次第に一つの方向(中盤以降は超然としている)に進んでいき、そのきっかけを作ったオルガのほうは実はゆれ続けている、パウル(オルガのボーイフレンド、極めて「ダサ」くて軽薄な人物に造形されているが、とてもコミカルでもある)を家に呼ぶことなどもその表れだし、両親に対する態度も彼女はまさに不安ゆえの苛立ちであることは明白だし、音楽はパウルとのセックスのときに流れるダサい音楽は結構効果的、それに対して、姉弟のときに流れる音楽は後半の基調として使われて結構いい。テーマとしてはとしては普遍的(ありがち)な少年の悩みものではありますが、(登場人物の心理の処理の仕方など)ある種のマンガのようにみれてかなり面白かった、ウイの時に隣に座った方とまた劇場であったのでそのことを話したら、岡崎京子さんの名前を出されたので、そのあたりは結構納得しました(リバーズ・エッジなど)。
 
 最後の決定的に重要なシーンである、両親を殺した後で、オルガがクルトを捨てて、パウルと出て行くシーンはそれまでの作り方からそうでありえることが分かるので良く出来ていたと思います、ここでこうしなければどうにもつまらないものになっていたでしょう。演出も、「ノラ」のときのような演出の迷いはないのですんなり見れました。両親の造形などかなりステレオタイプですが、、まあ、クルトに共感できないって方は見ても納得いかないかなーとは思いますが、ウェルメイドであったのは確かでは?

 さて、フォルクスビューネとシャウビューネがはっきりと違うのは、実はサブカルチャーとの位置取りにあると思います。いかに、カストルフ本人がサブカルチャーに浸かっていて、その体験が基本になっているとしても、フォルクスビューネは(若干の悪意をこめて言えば)本質的に「芸術」です、歴史や政治との緊張がきちんと出うるのもそれゆえではあります。演技などの質的な高さ以上に、素材としてサブカルチャーがあることで明白です。対して、シャウビューネはサブカルチャーなわけです、そしてサブカルチャーとしての演劇は実は演劇が歴史と観客=資源を持っている場所ではじめて可能なのではないでしょうか?そのような、シャウビューネの特異性をみな正確に把握し損ねているというのが私の感想です。サラ・ケインとシャウビューネの関係をしつこく論じてきたのもこれが基本にあったからです。ただ、マイエンブルグは自覚的かつ構築的に書いているので良いのですが、サラケインはそうはいかないようで大変そうです。(かなり適当なので後でまた書くと思う)

 さてサブカルチャーとしての演劇ですが私自身は実はここからは本質的に遠いというのがホントのところです、サブカルチャーとの縁が切れないのはカストルフ同様(えらそう)ですが、最近昔のマンガしか読まないし…。上述したように、基盤のないところにまともなサブカルチャーは成立し得ないと思います。ですから、ユリイカの7月号(まだ読んでない)*1なんかをみると、何か根本的な勘違いが、あるような(しかも事実上の監修者はそれを知ってるはず)。芸術もサブカルチャーも成立し得ない中での可能性の吟味というところに、小劇場だけでなく日本の演劇の最大の問題(優位)があるはずなんですが(私にとっては政治性をそのようなジャンルだからこそ持ち込める(現れざるを得ない)のでいいはずなのですが)。まあ、私もずいぶん演劇好きになったなというところで。

追記・6・29 ユリイカ一応立ち読みしました、まあ色々感想はあるし、内野さんの文章についてはちょっとまだ考えたいんだけど。ただ、上で書いたサブカルチャーという問題は当然ながら下部構造と歴史みたいなことが基本にあるわけです、まあ(自称)1968革命ってやつですね、おそらくドルショックの方が問題だと思うけど。それは「アメリカ」の問題でもあるわけですが。

 しかし、なんといってもこれだけは書いておきたいのは座談会ででた動員数のこと。要するに、私が参加するような公演の30倍近くあるわけです。ドイツ本国でのベルリナーアンサンブルの動員数はヒットすればその30倍くらいだろうから、日本の「小劇場」(の売れてるの)と某や某(無意味な伏字)にもそういう差があるということでしょう。このあたりは本気で考えないと…。とりあえず、メア・クルパ。