『エルドラド』

 で翌日に見た『エルドラド』なんですが、寝坊して後半しか観てないくせに私は大変この戯曲を気に入っています。ざっとしたストーリーは、会社を首になった男がそれを妊娠している妻に感づかれないように小細工をしているうちに、どんどん追い詰められて自殺してしまうというお話。夫にだけ聞こえる、戸棚を叩く音や上司の幽霊が喋る声が入るのがミソでしょう。
 作者のマイエンブルグも彼が所属する劇場シャウビューネの芸術監督オスターマイヤーも、先に来日したフォルクスビューネ*1などに対抗して「新リアリズム」を標榜していて戯曲はきわめてしっかりした構造の普通の戯曲です。彼のデビュー作「火の顔」は幻想的要素が一切ないようですが、この作品も表面上は違っても実は同じでしょう。これは戯曲自体を読んでいないので確認できませんが、いくつも挿入される非リアリズムのセリフ、ベトナムイラクを思わせる「南」の戦争の描写、思索的、回想的セリフは実は上司役の磯部勉(テレビでよく聞いているので実によくはまった)と夫が一貫して担当していて、現実の世界と自立しえない(からこそ幽霊を声を聞くわけで)夫の内的世界が峻別されているわけです。容赦なく進むみみっちくも過酷な現実(失業、夫婦間の摩擦、家の相続争い)と、大文字の悲惨な現実(戦争)の内的世界と同様のリアリティのなさを戸棚を叩く音でつなぐことにより、私達の生活の条件としての(一つであるはずの)現実の「2重性」という感覚を上手く表現できていたのは見事です。幽霊は一貫して夫に現実にあわせるために「うそ」をつくことを勧めて、その帰結として自殺を勧めるわけです。生きるために必要とされる「うそ」が死へ人を導くこのあたりの展開は誠に「リアル」でした。生きるために必要とされる「うそ」がマイエンブルグはサラ・ケインの影響を受けたみたいですから、サラ・ケイン的な「解離」(斉藤環)の世界を描くに当たってむしろ幻想を幻想として峻別させるような「(新)リアリズム」を選んだのはかなりいいやり方でしょう。ただ、演劇的環境が整っているというのがその前提でしょうから日本での上演は大変そうです。


 でなんでこの作品を私が気に入ったかというとこのような特徴は私の好きな少女マンガ家の吉野朔実さんと似たものを感じるからです。一見幻想的なセリフや設定とその実きわめて緻密に構築されリアルなところが似ているわけです。ただ、上司の幽霊に促されて自殺した夫の幽霊と妻が言葉を交わすラストシーンは「反復」が断たれることを予感させるある種のハッピーエンドなのだから、ああいう音楽の使い方は。もちろんきちんと構造をつかんだ演出で大変役に立ったのですが。

 それにしても以前観たヤン・フォッセの「名前」も妊娠が鍵を握ってましたね(ハッピーエンドだし)、吉野さんの場合唯一妊娠が役割を果たす長編「ECCENTRICS」がアン・ハッピーエンドなのと比べると対照的で面白いです。



ジュリエットの卵 (1) (小学館文庫)

ジュリエットの卵 (1) (小学館文庫)

           
ECCENTRICS (1) (小学館文庫)

ECCENTRICS (1) (小学館文庫)