治安への欲求と歴史についての言説(13日・19追記)

 ネット一部で行われている「ホテル・ルワンダ」論争。とりあえずの発端は、日本へのこの映画の紹介に尽力して、パンフレットに寄稿もしている町山智浩氏のこのエントリーからはじまったわけです。

http://d.hatena.ne.jp/TomoMachi/20060225
 騒動の概要はここからトラバを追っていくといいでしょう。

 パンフレットの最後の一行で関東大震災時の朝鮮人虐殺に言及したことが以後議論の的になります。

 この論争事態は中途で重大な転機を迎えます、id:finalventさんが書いたこのエントリーです。

http://d.hatena.ne.jp/finalvent/20060304/1141473634


 「日本人とユダヤ人」という極めて問題含みの本を自らの主張を代弁させる形で引用したことに私などはまず反応しましたが、その主張自体にも批判がありました。しかし、同様に幾人かの方が反論して議論は続きました。私はとりあえず自分お立場からまだ指摘されていないと思うことだけ書きます(このブログからリンクしているid:apesnotmonkeysさんのところにいくつか意見は書き込んでいます)

 さて、finalvent氏が書いたエントリーは、関東大震災時の虐殺と、ルワンダの虐殺は違うという主張です。虐殺を認めたらそのことによって日本人が危険に晒されると主張し、それを「あなたの子供がアウシュヴィッツに送られないと誰が保証してくれよう」(「日本人とユダヤ人」の引用)と煽って、その違いを認識すべきと主張します。問題は翌日以降この肝心の「違い」についてfinalvent氏はなにも触れなくなることです。その理由について考察します。

 とりあえず、id:fenestrae氏の記事などが証言として参考になるでしょう。*1 日弁連の報告書もあります*2。これらとfinalvent氏の主張を比べて見るとわかるのは(ただし、「日本人とユダヤ人」の意味の撮りづらい文章の解釈を厳しくすれば別ですが)、特に両者は矛盾しないということです。その理由は単にfinalvent氏が掲げたルワンダ虐殺と大震災時の虐殺は別だからです。例えば、ロシアで起ったポグロムも19世紀末と1905,6年では別であるようにです(あるいはホロコーストとは)。では、我々が認識すべきとされた、「違い」とは何なのか?。これがよくわからないのだが強力な「憎悪」のそれ以前からの有無と、略奪の存在であるようです。そもそも犯行の主体は「自警団」であり、日ごろの「蔑視」の裏返しの「恐怖」と「不安」に駆られた人々がわざわざ危険なところへ出向くはずがないわけです。では「自警団」とはなんでしょう。大日方純夫「警察の社会史」によると、元々、日本の警察は内務省所属であることからもわかるように「行政警察」であり、国民の生活の様々な領域を監督する任務があったわけです。しかし、1905年の日々や焼き討ち事件で警察が社会から憎悪と恐怖の対象になっていることが判明します。そこで、政府は警察と民衆/社会を一体化すべく政策を方向付けることになります。ここから、関東大震災までの20年近く、さらに45年まで警察の国民化と国民の警察化が政策の基調として進んでいくことになります。

 社会の中に警察と結びついた様々な組織(青年団在郷軍人会・消防団など)を張り巡らせようというなかで、民間の治安維持組織もまた組織されようとします。関東大震災はちょうどそのような組織の萌芽期に起きました。警察はここで国民の「自警活動」に期待したわけです。朝鮮人暴動の流言を行政や警察が認める(あるいはそう受け取られてしまう)ようなことをしばしば行ったのは、そのためには「やむを得なかった」のでしょう。しかし、「自警団」のあまりの蛮行に困って手綱を締める方向へとシフトしていきます。これらの「自警団」はそれまでの政策によって形成された団体を母体にしていたことがいくつもの資料から推察されます。震災後警察は統制の失敗を反省しつつも、その活動を評価しさらに軍や警察と密接に連携させるように推進していきます。

 このような動きは権威主義的コーポラティズムの体制を推し進め、やがて戦争とそれに伴う総動員体制の基盤となっていきます、「こうした事件、もしくはそれと同じ性格をもつと思われる事件は、なんら発生していないからである」と山本氏は誇らしげに書いていますが、その理由はこのような歴史の中で考えられるべきでしょう。

 フーン、虐殺を防ぐシステムてこういうのですか?ということはおいておきましょう。とりあえず、私の理解した範囲で「違い」を述べます。虐殺は権威主義体制と強力な治安維持システムの形成過程で起った。各参加者の動機は「不安」や「恐怖」である。finalvent氏はなぜ「違い」をきちんと言わないのか?今記述した見解は彼の条件を満たしています、認識するのが必要ならばきちんと述べるべきでしょう。

 さて、結論を述べると「違い」を述べることができないのは、「関東大震災における朝鮮人虐殺についても同じ枠組みがあるかと私は思う」という一行で尽きているでしょう。「同じ枠組み」とは「ある集団≒朝鮮人は日本人に憎悪を抱いている、彼らが受けた被害を認めることは我々日本人を命の危険にに陥れる」、これってまさに大震災の虐殺における流言蜚語そのままじゃないですか、町山氏がリンクしたページの人が「寒気」を憶えているのと参照してください。このような「恐怖」ゆえの団結と排除こそが関東大震災の虐殺の原因だとすれば、それをパロディ的に繰り返しているエントリーである以上決して「違い」を記述できないわけです。その後に話が移っていくのは当然でしょう。もちろん、現在の日本はルワンダでもないし、大正でもない。しかし、不安が蔓延して治安への衝動が噴出しかかっていると思います。転換点にあるとはいえ行政システムがきちんとある。その時に「何」を信頼するか?どのように不安を沈静化させるか?。面倒くさいので彼の治安や安全保障に関する発言は調べません。それでも彼が「何」を頼りにしているのかは明白でしょう。おそらくあのエントリーはそれほどきちんとした意図の基に書かれたのではないでしょうし、この騒動自体が「虐殺」のネット上でのパロディであり、現在の「不安」の中での一つのアクティング・アウトだったとも見るべきではないでしょうか。「ホテル・ルワンダ」についての議論のメインからはあえて外して書きました、どうもすいません。

警察の社会史 (岩波新書)

警察の社会史 (岩波新書)

 ともかく面白い本です必読。

http://www.mjcomtesse.com/serizawa.html
 大正期の社会を研究している、芹沢一也氏のページです。最近は一般書も出してます。まあちょっと、異論もあったり…。

http://d.hatena.ne.jp/hanak53/20060314/p2
 『警察の社会史』と植民地政策との絡みで面白いと思います。私は実のところ、『日本人』もまた、「統治上の対象」として同時期に改めて現れたと思います。

 エーと実は「ホテル・ルワンダ」はまだ見ていません<(_ _)>。とりあえず、これなどを参照に*3
 
 弁解的な追記(13日)

 一日おいたのでそもそも自分が何を書きたかったのかわかってきたので追記します。

 1・そもそも何の具体性もなく偽ユダヤ人による「アウシュヴィッツ」についての言葉を引用した「煽り」に怒った。これが実はもっとも強いわけです。あちこちでしょっちゅう行われていることではあるのですが…。

 2・関東大震災時の流言蜚語を流布や、その内容を是認するかのよう対応したり、しばしばそれに加担した警察の行為と問題のエントリーの書き方や論法がよく似たものになってしまっていること。私はfinalvent氏をどこに位置づけるか躊躇したのです。finalvent氏の位置なのですが、「自警団」の位置にいるわけではないだろうし、警察の位置にも(そんな権力も意図もない)いない。おそらく警察のような優越的な位置が一見ないのがネットの言論であり、パロディでしかないのもそれゆえでしょう(だからといって無害だとは思いませんが)。

 3・文脈をおきなおすこと。というわけで現在の治安への渇望の高まりに問題のエントリーを位置づけなおすことにしたわけです。それが関東大震災への言及を削除させたいという衝動の元としてより重要だと思ったわけです。治安を求める時に「異質なものへの排除」が働きやすくなるのは確かです。

 19日追記

 エーと、その後、2つトラックバックをいただいきました。以下、問題になるところを補足します。

「ある集団≒朝鮮人は日本人に憎悪を抱いている、彼らが受けた被害を認めることは我々日本人を命の危険にに陥れる」、

 ここが引用されているのでどうしてそのように、finalvent氏が述べていると私が解釈したか説明します。

関東大震災における朝鮮人虐殺についても同じ枠組みがあるかと私は思う」

 この引用*4がその決め手なわけですが、「同じ枠組み」というのは、finalvent氏による『日本人とユダヤ人』の引用に対応しているわけです。以下がそれです。

朝鮮戦争は、日本の資本家が(もけるため)たくらんだものである」と平気で言う進歩的日本人がいる。ああ何と無神経な人よ。そして世間知らずのお坊ちゃんよ。「日本人もそれを認めている」となったら一体どうなるのだ。その言葉が、あなたの子をアウシュビッツに送らないと誰が保証してくれよう。これに加えて絶対に忘れてはならないことがある。朝鮮人は口を開けば、日本人は朝鮮戦争で今日の繁栄をきずいたという。その言葉が事実であろうと、なかろうと、安易に聞き流してはいけない。

 これに呼応して「同じ枠組み」という言葉を使っておいて、町山氏のパンフレットの文章についてに行くのですから現在も「同じ枠組み」があると主張していると解釈せざるを得ません。さて、『日本人とユダヤ人』の引用は私には「朝鮮人」は(それが事実であろうとなかろうと)過去の歴史に由来する「憎悪」を持ち、「あなた」(ということは筆者にかかわりなくこれは日本人をさす)の子を「アウシュヴィッツ」に送るかもしれない、ととれる訳です。finalvent氏の主張で現在においてその「送る」主体が「朝鮮人」であることは、エントリーから明白です。ある「特定集団≒朝鮮人」を「我々≒日本人」にとっての生存にかかわる危険として指定するということにおいて、関東大震災時の流言蜚語と同じであるわけです。

 さて、ここからなのですが、13日の弁解的追記も含めて、私の全体の文意では同じである点と違う点とが両方上げられています。『現在の日本は、ルワンダでも、大正でもない』と書いたときに当然ながら、関東大震災の直後のような時期ではないと言うことも含まれています、そうであればfinalvent氏の言説と『流言蜚語』に一致する点があっても同じようには直接には殺人の扇動としては機能しません。そして間接には機能するかという当然の問いに対して、『この騒動自体が「虐殺」のネット上でのパロディであり』『ネットの言論であり、パロディでしかない』と否定的に答えているのです。

 最後にこのエントリーの主張を再度です。私はこの騒動の中に、社会全体に蔓延している「不安」の高まりと、それを解消しようとする衝動(「治安」への欲求)のネットにおける言説としての現われを見て、そのような解釈を書いたわけです。ですが、このような言説が引き起こすのがとりあえず「祭り」でしかないことも確認したいと思います。マスコミ上で起ればまた別でしょうが、それとて、「主張された内容」がストレートに力を持つのではないことは強調しておきます。小泉批判という形で私が延々と書いてきたこともその事態にどう対処するのかということと関わっています。とりあえず、「不安」の高まりが何によりどのような結果をもたらすにいたるのか考えることは必要です。それとともに、そのような事態にストレートな言説では対処できない、その上でいかに振舞うべきかという問いが重要であると思います、この二つの問題はつながっているのではないかと私は思っています。

 なお、当時の日本人の朝鮮人への憎悪が虐殺の要因のひとつであったことは当然です*5 *6 *7