「ノラ」+サラ・ケイン

 本日は世田パブにシャウビーネの「ノラ」*1を観てきました。6月10日のエントリーでシャウビューネの劇作家マイエンブルグの「エルドラド」についてサラ・ケインと絡めて書きましたが、そのような見方をすると演出(芸術監督)のオスターマイヤーも実はかなりマイエンブルグと近い問題意識と方法論を持っていることが(アフタートークも含めて)分かりました。上演された作品自体は題名からも分かるとおり、イプセンの「人形の家」を原作としています。かなり見事な「人形の家」の舞台装置を使い、現代に時間を移した上演にしています。演技もきちんとしており、演出の方法論も前回のエントリーに照らせば、「新リアリズム」というのにふさわしい考えられたものでした。演劇という行為自体がドイツにおいてすら難しくなってきている中で、サラ・ケインのような「病理」のテクストを、あるいは「病理」の徴候をいかに上演として現出させるかという視点は、その条件である現代の世界という閉鎖空間(アメリカとも呼ばれる)にすむものにとっては切実な問題です、あえてドイツ演劇という資源と与えられてしまった環境に依存してそれを「上演」しようとすることは別の歴史にいる我々にとっても興味深い行為です(それが我々に出来るかは別ですが)。それが何か達成しうるのかは他人事でない問いでしょう。

 実際の上演ですが、問題はそのような意図がどのように実現されていたかです、舞台装置はすばらしいまさに「人形の家」です、しかし、問題はラストの改変にあります。ノラがヘルメル(夫)を射殺するという風に改変されているんですが、これが完全に裏目に出てます。オスターマイヤー自身の問題意識は男女のジェンダーによる権力関係が再びイプセンの時代のように悪化しているという至極まっとうな(これはうんざりするんですが、反・ジェンフリの連中がこれに注目すらしなかった、いかに相対的には失敗作とはいえ税金で外国から、立派な劇場で「ジェンダーフリー」の芝居をやったわけです、お願いだから叩いてよ!まあドイツではけっこう問題になったみたいですから、日本の演劇の位置も知れるというものです)認識に基づいています。経済的自由主義+家族の価値(ネオリベラリズム)という奇怪な取り合わせがサッチャーレーガン以来世界で強まっていることは現在の世界の問題を端的に示しているわけです、そしてこの奇怪な取り合わせはある程度の必然に基づきそこから対抗策や(自称)自由主義者たちの間違いも見えてくるのわけです。サラ・ケインは端的にそのような現実の落とし子なのでして、そのことはあちこちで結構論じられています。私の関心はサラ・ケインの「貧しさ」が孕む可能性にあります。戯曲の形式上はミュラーやベルナール・マリー・コルテスにていなくもないけれど、どうしょうもない「貧しさ」と「狭さ」を基本としているわけです。その条件の下で政治性(上演性)をくみ出す可能性を考えるときにシャウビューネに一定の評価をするわけですが…。それは同じ条件を持つものの共感であるわけですが。

 今回、アフタートークでオスターマイヤーはこの上演に出ている登場人物が全員大人でないことを語りました、確かに近代劇的な一貫した人格を彼らが持たず、常に衝動的で不安を表面に出していることは確かです、しばしば取られる逸脱した演技はフォルクスビューネのような世界の構造としてのレベルでなく、むしろそうした心理造形のレベルで理解しえるしきちんと意味を持ちます。しかし「現実」の影が彼らにまとわりつき、不安がそれゆえのものであることは確かです。問題は、唯一このような不安に対して無縁なのがヘルメルだということです、社会的地位を持つという「現実」がそれを許しているともいえます。役作りもかなりそのようになされているため、彼の非現実性が際立つわけです。ところが、最終場面のノラが出て行くにいたる対話はその意味で彼に現実(界?(笑))を対置するもののはずですし、私はそう受け取ったのですが、そうだとすればその場面ですでに(構造的に)死に直面しているはずの彼をわざわざ射殺する必要があったのかという疑問が出ます。それは入れる必要もなかったし(あるいは主演の女優が望んだように子供も含めて殺すか)、もし殺すのであれば演出の構成自体をかなり変えないわけにはいかなかったのではないかと思います。最後に「人形の家」を出たノラが一人で呆然とするシーンがあるのだから、オスターマイヤーは彼の現状認識のとおり「殺す」などという選択肢をノラに与えず無力のまま放置すべきだったのではないかというのが私の意見です。

 考えてみるとオスターマイヤーは、ノラとヘルメルのジェンダー的権力関係の強さに本当に十分には気づいていなかったと思います。それゆえに、ヘルメルの「鈍さ」があまり十分に出しえず演出全体がピンボケしたのかなとは思います。とはいえ、もはや普通に上演が出来ないという事態を素材レベル(サラ・ケイン的「病理」はそのような素材なのです)でアプローチしようとするシャウビーネにある種の期待をしていることは確かです。大体これよりチケットが高くてこれより酷い上演は山のようにありますから。

 ちなみに私の「師匠」は2年前にベルリンに行ったのですが、ベルリナー・アンサンブルを絶賛して、シャウビューネを批判していました、中でも一番酷かったというのが「ノラ」だったというのですが、では何が一番良かったかとたずねたところ、帰宅したOLの行動を一時間近く無言で上演する舞台だったそうなのですが、判明したのは実はオスターマイヤーがノラの続編を意図して作ったのがその作品だったということです。アフタートークを聞いても意外に敏感にメッセージを受けとっている人(女性)が多いのが印象的でした(反ジェンフリの皆さんこんなところにも敵はいるんですよ)。次の「火の顔」はお勧めでしょう。