共産主義か死か・『ペシミストの勇気』について

 清水さんのコメントを受けて、前回にやや関係のある話題があったので一つ、サルトルカミュ論争のことです、元はDeadletterブログさんのエントリーhttp://deadletter.hmc5.com/diary/past/2002-july.htmなのですが最近発掘されたのが伝わって猿虎日記さんのエントリーhttp://d.hatena.ne.jp/sarutora/20050612で取り上げられたようです。猿虎さんは専門家だから、サルトルびいきのところもあるでしょうが、私もそうなのでかまいませんが、カミュ的な「正義の人」の問題点はアルジェリア戦争で出てしまったわけですね、しばらく前に出たカミュ伝でカミュの「アルジェリア戦争」についての発言はきちんと前後を読むべきだと書いてあったのですが、前後を読むとますますやばいというのが率直なところで。もう一人、ジョージ・オーウェルがそうだけど、この二人のために、私は「ナショナリズム」と区別されるいわゆる「パトリオティズム」を信用できないのですね。*1それは一つにオーウェルが「犬・密告者(nark)」だったという事実によっています。*2*3
・ *4

 私はこの二人が両方とも上に書いた意味での「パトリオティスト」だった事が気になるのです。とはいえ、特にオーウェルは自分自身でもその信奉者たちによっても、「正義の人」であることを求められすぎたためにスキャンダルになってしまうので、オーウェルの宿敵のグレアム・グリーンが『ヒューマン・ファクター』で主人公を「許した」ように、「許すべき」だし、「許すことしかできない」とは思います。その後で残るものを探るべきでしょう*5。「正義の人」問題のめんどくささはこういうところにもあるわけです。とここまでは前段で問題の「パトリオティズム」と「非人間的なもの」(もうひとつ「諸君!」で『靖国問題』のおかしな書評を書いた人)についてはまたあとで。すいません。

[続き]15日

 続きを書こうと思ったけど、「希望」は恐らくほとんどの人が読んでないだろうしな。ほんの数ぺージの小説で、米兵による少女暴行事件を背景にある男が沖縄で(全く関係のない)米軍兵士の子供を殺してそれが沖縄に必要な事ができる唯一の方法だと独白するという小説です、これ恐ろしい事に朝日新聞に載ったわけで。「非人間性」という意味でも、主人公の「意味が理解できない」「想像を超えている」という意味でも、あてはまるんだけど不思議と説得力があるのは確かです。

 「鹿野」やこの主人公が問題になりうるのは、「非人間的なもの」のある種のどうしょうもない必要性です、それがないと事態を前へ進める事ができない。しかし、「前」とはどこなのか。サルトルは前があるとして行動していたし、ジュネもそうなのだろう、実は私もそうだったりする。で、それに対して、「鹿野」に対する少女や、『希望』の主人公に対する子供(を殺すまでの描写)は抵抗として働くわけです。ただ、ここで指摘できるのはこれらの抵抗が彼が戦っている具体的な「敵」の側から来ることでしょう。そうでなければ何の興味もひかない。で、上記の意味での「パトリオティズム」って定義上「敵」につながるものではありえない。「1984年」を読めば簡単にわかります(笑)。具体性や敵対性をネグったままの、あるいは偶然性に居直った「パトリオティズム」が問題なのはここではないんでしょうか?最悪の「非人間性」を発揮されるときに、「理念」のような明示的に「不自然」なものを経由せずに行われる「人間的な」正当化がそれを支えると。と書いてきてもいまいち適当だなという感がぬぐえない、なのに書いたのは、宮崎哲弥が予想通り、「文春」で靖国参拝賛成といってるからなんですね、「諸君」での「靖国問題」の書評のひどさと座談会では口をつぐんでいたことから考えるとなるほどねーとしかいいようがないけど、彼自身の利益という「合理性」は貫徹しているんでしょう。まあ理論は無理にきまってるけど人格は頑張ってシュミットに追いついてください。


 猿虎日記さんの翌日のエントリー*6で偽善について書いてあったのですが、昔ナンシー関さんが駄洒落について書いた文脈で、偽善を知りつつ行う人と自分が善であることを確信して偽悪者ぶる人とでは、前者の方がはるかにいいと書いていました。自らが善であるというふざけた前提でしか使えない、「偽悪」という造語が使われるようになって世の中急速に悪くなったと思っています(「嗤ナショ」とつながるかな)。

 どんどん口汚くなってるなしかし。

*1:もっともそれはソ連に対するパトリオティズムを認めるぐらい徹底していれば別です・http://www.diplo.jp/articles04/0403-4.html

*2:検索かけてみても全く出てこないので簡単に説明すると、ジョージ・オーウェルは晩年自らの知人や有名人の中から共産主義のシンパと目した人物を外務省の情報機関にリストにして送っていたということです、「1984年」を自分でやっていたというお話

*3:http://books.guardian.co.uk/departments/generalfiction/story/0,6000,986694,00.html

*4:http://books.guardian.co.uk/departments/politicsphilosophyandsociety/story/0,6000,986354,00.html

*5:要するに、P・K・ディック(この人もせっせと知人をFBIに密告していた)を読むように、「カタロニア賛歌」は「アンドロ羊」のように、「1984年」は「ヴァリス」のように読むべきだということです、学術的にはそれに近い読みもなされているようです

*6:http://d.hatena.ne.jp/sarutora/20050613