「ドラマリーディング」て何よ。(そのうち読みやすく修正します21日、ちょっと追加修正3・9)

 というわけで、今回の更新では東京国際芸術祭の『アメリカ現代戯曲&劇作家』シリーズ*1 *2
を取り上げます。一度に、4本も新作戯曲が紹介されるのは珍しいですし、ずいぶん新しい作品が紹介されるのでちょっと楽しみにしていました。頑張って4本を見ましたのでここであれこれ感想を書きます。

 そもそも、ドラマ・リーディングとは何かということですが、欧米で本公演を行う前に、ごく簡単な演出で役者が台本を手に持って上演することで、その評判で公演が決まっていくといったシステムであるようです。日本では、主に翻訳戯曲の紹介などに使われています。私は基本的に戯曲好きで、はずれが少ないのでこれを好んで観ています。ベルナール=マリー・コルテス、パゾリーニ(「オルジァ」)、ペーター・ハントケ、ペーター・トゥリーニ、サラ・ケイン、デビッド・ハロワー(「雌鳥の中のナイフ」)など手堅い(内容的に保障済みの)セレクトが多いので役に立ちます。私がこのブログで、[play]として紹介している中にも含まれています。

コルテス戯曲選

コルテス戯曲選

 今回、目立ったのは定評がある、もしくは大いに物議をかもす作家(ノーベル賞を取ったりするけれどw)ではなく、あまり大物でない作家の、しかも最新の戯曲が紹介されていたことです(マック・ウェルマンは作家としては例外のようですが、日本語で検索するとほとんど記事がでてこない、これは誰がわるいのやら)。さらに方針として、9・11以降の情勢を受けて、極めて社会的な(好きな言葉ではないが、PC的)内容の戯曲が選ばれています。問題はこのような戯曲を日本でドラマリーディングすることの問題です。

 ドラマリーディングというのは、基本的に上演と戯曲の区別が観客に浸透していること、さらにその前提として演劇が文化として確立していることが条件となります。実のところ、それは日本では確立していません。詳論する余裕はありませんが、日本において分野として演劇は自立しているとはとてもいえません。小劇場や新劇、商業演劇、古典芸能、そのほかは本当には交流もなく、住み分けだけが行われているといっていいでしょう。その中でも「東京演劇」というサブカルチャーの一変種(しかもそのなかでもマイナーな)がなぜかユリイカで特集されてしまったりするわけです。佐藤郁哉氏の本が記述するとおりの中途半端で産業たりえていない(というかそれが不可能な)領域では(ヨーロッパのように国家の力で芸術として自立もしていない)、の上澄みから何かを拾ってくる以上のことが可能かははなはだ疑問でしょう。皮肉を言えば海外との交流とテレビ(現在の足利義昭が象徴ですが、悪口ではないです)が逆説的に日本演劇を定義している、その意味で「有名な」海外戯曲の紹介というのは、ベターな選択ではあったわけです。今回はそれとはまるで違います。

現代演劇のフィールドワーク―芸術生産の文化社会学

現代演劇のフィールドワーク―芸術生産の文化社会学

 さて、そもそも社会的なテーマを扱うということ自体がさらに問題であるわけです。私としては、
「9.11以降に世界が変わったとか、私の作品が変わったということは思わない。よく、9.11以降何かが変わったとメロドラマティックに言う人がいるが、それは単に政治的状況認識ができていないだけ」マック・ウェルマン*3これに付け加えることは特にありません(芸術的状況認識、と付け加えてもいいか)。そのため、ここではむしろ文化社会学的な視点が出ることになってしまいます。ホームページのプレスリリース*4での紹介や、ポストパフォーマンストークでの話なども総合すると、合衆国の中西部のガスリーシアターが主になって最新の戯曲を選んだためその風土をかなり反映したものになったようです。実際舞台が中西部のもの(「アクト・ア・レディ」)があります、また「メイヘム」はミネアポリスでは(政治的理由らしい)上演できなかったそうですから、露骨に中西部的ではあります。このような地域差自体が日本ではありえないことでしょう。そのような条件の中でどのようなリーディングが行われたか基本的には『セックスハビッツ・オブ・アメリカンウィメン』を中心に書いていきます。

 全部ネタばれです。

A『メイヘム』MAYHEM (2000) 作:ケリー・スチュアート 翻訳:川島健 演出:宮崎真子(俳優座)2月10日

 演出の方のインタビューがあります*5。基本的には演出は最もドラマリーディング的でした。これだけは2000年とやや早い時期に書かれています。戯曲内容もよく書き込まれたいいものだったと思います。登場人物は、女性、その夫、女性の友人、ジャーナリストの4人。友人に誘われてアフガニスタンの女性の状況を報告する会に出席、ジャーナリストに会い彼から友人のカメラを託されます。それによって、3人の関係が微妙に変わっていきます。実際の事件である、ハゲワシと飢えで倒れた少女の写真でピュリッツァー賞をの写真を受賞したカメラマンのケビン・カーター)が自殺した事件と(カメラは彼のものだった)、主人公の女性と夫がかつて体験した殺人事件の二つの間に巧みにアメリカの人々の現状と夫婦の関係の変化を描いたなかなかの佳作です。全てが民主党党大会の混乱に収束するラストも悪くないです。ただ、個人的な意見を書けば、そもそもこの作品の登場人物は夫婦二人ですんだのではないだろうかということがあります。ジャーナリストや、友人がややうすっぺらいのに対して、夫婦の関係(いかにもマッチョな夫、かつてセックスピストルズの前座をしてたりする、とナイーブな妻)の変化が基本なので、「カメラ」は最低限の導入でよかったような。

 

B『アクト・ア・レディ 〜アメリカ中西部ドラッグショー〜』ACT A LADY, a mid-western drag show in three acts (2005) 作:ジョーダン・ハリソン 翻訳:須藤鈴 演出:江本純子毛皮族)2月11日

 えーと戯曲は一言で言えば少女マンガです。これは悪口ではありません。つまり、微妙な問題を扱いながら、実はけっこうナイーヴな方法論(配役の取替えや自己内対話の処理など)で多くの観客に開かれて書かれているということです、登場人物の描き方も(演出を抜いても)マンガ的ですし。ストーリーは1920年代の中西部の田舎町で、男たちが女性の役で妙に古めかしい劇を演じるという話です、それに彼らの妻や演出家などが絡んでいきます。各人の関係性や隠れていた意識はどんどん劇の練習にしたがって露になっていきます。そのようにして発生した混乱が外部からの圧力(教会?)によって上演が危機に晒された時に各人の自己認識の変化を経て上演の成功につながるという気持ちのいいハッピーエンドも少女マンガ的です、なんだか日本の学校の文化祭に舞台を移しても話が通じそうで、このような主題が上演され受け入れられる領域や観客の比較は面白そうです。ちなみに「1920年代のアメリカ中西部では、普段農作業をしている男性たちが貴婦人を演じる芝居を行ったりといったことが、実際行われていたそうです」*6
 で問題は演出なんですが、これが毛皮族かということはわかりました。配役がいろいろ入れ替わったり、衣装などで効果を出す戯曲なのですが、ドラマリーディングにあまり向かないのです。それを、毛皮族流に演出したため戯曲を読み取るのが大変でした。無理やり二つのマンガを合体させたような…。疲れがたまっていたこともありへとへとでした。ただここまで演出して、ドラマリーディングになるのかという問題は後で。


C『ベラージオ;もしくはメタル製のすべてのもの;もしくはおじいちゃんがパパを射殺させるとき』 BELLAGIO; or Of all Things Made of Metal; or When Grandpapa Had Daddy Shot (2005)
作:マック・ウェルマン 翻訳:川島健 演出:中島諒人 2月11日

 この戯曲は私にはとても重要なので後ほどきちんと書き直します、エントリー昇格も考えています、とりあえず、第1幕は未来派の活躍を台詞で描き、第2幕ではムッソリーニマリネッティの会話からなっています。マリネッティはイタリア・ファシズムに深く肩入れした人物ですが、ファシズム未来派ファシズム加担の時代と原因とその意味を描き出す貴重な作品。第1幕の重要な台詞「ヒトラーは女である」と、後半のマリネッティの台詞の多くが実はその著作からとられている、イタリアのファシストのジャーナリスト、クルツィオ・マラパルテ(映画業界ではゴダールの「軽蔑」で有名だけど、ジャック・リヴェットの「恋ごころ」にもちょいとでる、ピランデッロもでてるけど、そもそも「軽蔑」の原作者、モラヴィアファシズム時代、マラパルテの援助で国外に出たりしていた。)をきちんと位置づけること抜きには論じられない。特に反ユダヤ主義として現れるナチズムへのイタリアファシズムの屈従というもう一つの問題もそれに平行しています。戯曲は(現在の)ファシズムを考える上でも非常に有益です。

壊れたヨーロッパ

壊れたヨーロッパ

 もっとも早期のホロコーストに関する記録(44年刊行)、イタリア軍大尉の肩書きを利用して、東部戦線とドイツ支配下のヨーロッパを巡って書かれたドキュメント。第一幕で、マヤコフスキーやロシアでの滞在に多くが裂かれた理由もこれです(ホロコースト独ソ戦と密接に関連しています)。

悪こそは未来

悪こそは未来

 マラパルテが戦争中新聞のために書いた記事を集めた本の独訳版のミュラーによる序文が収録。



D『セックスハビッツ・オブ・アメリカンウィメン』
THE SEX HABITS OF AMERICAN WOMEN (2004)
作:ジュリー・マリー・マイアット 翻訳:吉田恭子 演出:中野成樹*7と演出家のインタビュー*8 *9があります。1950年代に「セックスハビッツ・オブ・アメリカンウィメン」(やっぱり実在する本だそうです)という本を書いている精神医学者の家庭の出来事と、2004年の同じ題のインタビュー映画の撮影を受ける女性の映像で構成されています。ストーリーは、表題の本を書くドイツ移民のティテルス博士とその妻アグネスのすれちがい、そして教師をしている30過ぎの娘の「反抗」からはじまります。夫との疎隔を感じ衝突しつつ、アグネスは夫の弟子のエドガーと関係を持っていくようになります。やがて、本は出版されますが、娘のデイジーは自分の生徒に同性愛的感情を持っていることを発見します。それを聞かされたアグネスは家庭の平穏を守るためにエドガーにデイジーと結婚してくれるように求めるのです。その間も、インタビューは進み会話はだんだんと進行して、インタビュアーとジョイはセックスした後でインタビューは再開されます(第2幕)。インタビューの終わりと家族の記念写真シーンで終演となります。

 さて、ここからは上演です、舞台では映像を使わず「何を見ているの?」と書かれた黒板をはさんで、上手は1950年、下手は2006年です。1950年の舞台には学校用の椅子がいくつかおかれ、そこで上演が進みます。指定に反して映像を使わないため、インタビュアーは普通の登場人物として初めから登場します。実のところ、私はここで引っかかってしまったわけです。映像を使うことと、二つの舞台を並列させることは全く違うからです。この上演の場合は舞台は並列です、それは二つの空間が等質で対等であることを意味します。映像の場合は異質で異化的となるわけです(もっともただの装飾に終る場合がほとんどですが)。映像の場合は、関係が対等でないとすれば両者がどのような位置にあるのか、そこに映されているのが何かが重要になります。とりあえず、演出によって、一つの解釈というよりは劇の構造の確定がなされたわけです。

 さらに、役者は年齢の若い人で占められています、実年齢と役の年齢は30年以上離れている人もいたのではないでしょうか(そしてその差を埋めるような演技はなされていない)。椅子も含めてある種のうそ臭い雰囲気(学芸会的?)を1950年の舞台は持っています、演技をしているということが強烈に感じられるわけです。それに対比されることによって、2006年の舞台はあるリアリティを出すことができています。もちろん、だからといって、ジョイが50歳に見えるというわけではありません、むしろ彼女の年齢は俳優と同様に見えます。

 ところで、2つ舞台が並んでいれば見ている人はその関係を知ろうと思うものです。設定上は50年の時間がその間に存在するならなおさらです。先ほども書いたように二つの舞台の関係は対等です。だとすれば構造上あるいはストーリー上に何かを見出そうと思うわけです。そこでは戯画化された50年代(台詞中にはその時代を思わせるものはいくつもある)と、はるかに「自然な」現代を見ることができます、実のところ現代というにはジョイの役はやや年齢が高いのですが。さて、最後にジョイは1950年の舞台に出てきた(第2幕で生まれている親類の)赤ん坊であることが判明します。これは途中から(なんとなくですが)判ってしまうので特に驚くことではないのですが、私が気になったのは赤ん坊の母親とジョイを同じ役者が演じていることです。これは事態の少しずれた反復を現しているわけですが、困ったことにこれも戯曲上の指定かどうかわからないのです。とはいえ、これがかなり演出上の重要な要素になっていることは確かです。作者のインタビューにあるように彼女は50年代に育った「普通の女性」であり、50年代の普通の女性であった彼女の母親から、彼女の娘(戯曲では映像中にほんの一瞬しか登場しない)に至るつながりが、社会における本筋なわけです。その意味でこの二人を同一の役者が同じように演ずることは正解であるといえるでしょう。さらには50年代と現代の等質性を表現してしまっている上演においては当然だといえるでしょう。おそらく戯曲とはずれてこの上演は明らかに「時間の経過≒歴史」ではなく「歴史の不在≒変わらなさ」を表現しているといえますその意味で見事な「誤意訳」であったでしょう。

 同じく50年代を扱った映画、スタイルにおいて徹底して50年代(ここでは、ダグラス・サーク)を模倣することで歴史と社会を浮き彫りにしようとする方法は比較してみるべきでしょう。


 結局のところ、舞台全体の「ペラペラ」さ(これは舞台を並列させるという演出によって強化されたといえる)の背後にある「何か」を感じ探し続けるということを上演中私は続けてきたわけです。そのように舞台を見ることは、映像という戯曲の設定が変えられたことと、映像と舞台のストーリーの人物関係のずれたつながりに発しているわけです。そのように見ることで「ペラペラ」さを単純にそれだけのものとは見なくなってしまうのです。ともあれ、私は面白く見れたということです。では、実際にはどうだったのかの手がかりとして作者のインタビュー*10を発見したわけです。ある程度の答えはこれでわかりますが、映像に関してその効果をどこまで綿密に考えたかは微妙でしょう。なぜストーリーが多層になったかに関する説明は興味深いものです。しかし、まだわからないところは多いし、かなり改変された台本が使われているようですから、そのままの訳を読んでみたいところです。ともあれ歴史を描くということに関して(それをできるかどうかというレベルで)、作者と演出ははっきり態度が違っているのではと推測させます。そのようなこと考えさせるだけでも成功であったと思います、これが「誤意訳」だったとすれば面白いのです。

 最後に、ドラマリーディングという形式の問題です。これまで延々と書いてきたことはこの上演がドラマリーディングなのかという問題に行き着きます。私があまりに過剰に演出されている(それは構造を改変するほど)という意見です(まあ、ここまで戯曲自体を改変されると言うだけ野暮ですが)。しかし、(上演としてもそうですが)アメリカ現代戯曲をその同時代性と社会性において捉えるという時に最も効果を上げているのがこの上演であるのも確かです。大体、真剣に上演と戯曲の違いを考えて見るという人が何人いるのかも謎ですが、私としてはやはりどうしてもここまで(改変を)するのなら何らかの形での戯曲の公開もして欲しいというのが本音です。戯曲の忠実なリーディングに失敗することがこのシリーズのテーマを具体的に考えさせる上演につながったわけですから(もちろん、見る側は常に考えているべきことなのですが…)。普通の上演ではなくドラマリーディングとして今後も続けるべきかですが、日本の演劇事情を考えると、戯曲の公開とセットで続けて欲しいと思います。とりあえず、上演と戯曲の分離という前提のはずのことが存在しないというのがこの国の現状ですから。そして、ストレートプレイを行えないということと社会性や歴史性の欠如が結びついているのがこの国の現状であるも含めて考えると。まあえらく理念的ですがそんなところで。
 
 あ、全ての戯曲にもとになる実在の「何か」があるという問題がありますがそのことはおいおい。