解体社上演でクアトロ販売します(追記30日)、前回の上演に関するメモ(追記12・1)さらに(追記12・3)。

 えーと、12月2、3、4日に行われる、解体社の上演([夢]の体制)において「批評誌クアトロガトス」を販売します、上演についての詳しくは解体社のページを。
(追記・3日)一日目は結構(16冊)売れたようです、二日目以降は私も売り子をします。しかし、キーワード解体社で表示される本と解体社と何の関係があるの?

http://www.kaitaisha.com/

[開演/Start] 12.2[Fri.]19:00 12.3[Sat.]19:00 12.4[Sun.]17:00


[会場] 国際交流基金フォーラム at Japan Foundation Forum

全席自由 4000円(前売・当日とも)


[予約・問い合わせ]


劇団解体社 チケットぴあ 0570-02-9988/0570-02-9999「Pコード: 365-287」

 **解体社上演についてのメモ

 カンバスになかなか興味深いカノコトの上演を見に行った後*1に、解体社の演出の清水信臣さんから伺ったことですが、清水さんはパリでアガンベンの「開かれ」を読んだときのことを話してくださいました。要するに日本では実感できなかったものがパリでは実感できたとのことです。アガンベンのテーマから考えると当然でもあるとともに、これはある種不気味な事ですらあります。私は3月の上演で3部作の二作目「私的人体」は見た終ったあとでアガンベンの論理を上演として再現して見せたものだと思ったので、それについて尋ねてみたところ、あの上演は第3作の「不死のウィルス」の前に敢えて上演するためにかなり急いで作り上げた作品だということでした。ですから「不死のウィルス」における転回が本当の問題になるのですがそれはU野さんに任せておいて、ある意味で集大成的な「私的人体」を取り上げます。

 まず、そのラストシーンは前作にいていますがはるかに圧倒的です。その違いは、シーンの中で特定の人物にはライトは当たらないこと、そして黒い布で覆われた鏡の上でパフォーマーが動き回っていることです。この上演で一貫して床に敷かれた鏡が各シーンの構成の要として使われていました。それらのシーンは、上着がぶら下がっているところで、パフォーマー一人が鏡の上で演技する最初のシーン。数人のパフォーマーが同時に無関係に演技する次のシーン。そして、ライトの方向が変わって演技の汚れで曇ってしまった鏡の上で、コスプレしたパフォーマーが演技する次のシーン。そしてラストシーンまで全てです。

 最初のシーンでは、立枝動き回っていたパフォーマーが鏡の上に寝て吊り下げられた衣服を見ます、それは視線を完全に鏡からはずします、それまでの統一された身体(のイメージが)鏡に映ることで成り立っていたことがわかります、このときにはもはや身体と鏡像はべったりと接着し、ひとつの「人間もどき」(ラカン風にいえば「オムレット」を観客は見ることになります。次のシーンも鏡の上で演技するパフォーマーとその外で演技するパフォーマーは違った動きをするように見えます、ここでは鏡はステージでありそこで演技するパフォーマーは主役のように見えますが鏡は壊れやすく危険であるというごく現実な理由のゆえにゆえに制約された「普通の演技」をせざるを得ません。鏡に写る事人間である事は危ういものであるのです。

 そして鏡が演技の重なりの中で付けられた汚れによってパフォーマーを映す力をうしないつつある次のシーンでは登場するのはコスプレイヤーです、ピンクの桂の下着姿のバービー人形と背広を着て靴(!)を履いた人物、彼らは以前のパフォーマーのような演技はもう出来ません、単純に規格化された動きは彼らのコスプレにあったものでもありますが、同時に前のシーンと同様に鏡という「物」の上ではそうせざるを得ないものでもあります。もはやここでは彼女は普通のコスプレイヤー以上にバービー人形に近くなっています、鏡は映してくれないためその動きの統一=人間性を保証するものはなく、背広を着た男性は現実のサラリーマンがそうであるように単に物理的制約によって黙々と演技します。

 鏡が黒い布で覆われてしまったのが最終シーンです。証明が落とされレーザーと網目状のライトにだけ照らされているパフォーマーたちが動き回るこのシーンにおいて、鏡はどこに行ったのでしょうか?ここで彼ら自身がもはや鏡の機能を担ってしまっていることが明らかになります。私たちが自分を確認する鏡は彼らであること、ライトに照らされるすなわち観客に見られることによってその存在がわかるこの鏡は不恰好でそれが持っているはずの反射の正確さを持っていません。これは人間が互いを見ることで人間性を確認しあうことが出来る状況ではありません。観客はこれまでのシーンのようにはもはや鏡=舞台を覗き込むことが出来ず、鏡そのものになったパフォーマーと対峙する状況になります。この極めて不安定で意味の確認の難しい状況において、つまり『意味の融和による連帯を保証されることもなく、したがって他者による理解を当てにすることも許されず、それでいて他者と関係することからは逃れられない』状況において、観客の人間性はある揺さぶりを受けます、これを例外状態といってもいいでしょう。そしてそのことが明らかになった時に、それ以前のシーンの全てに例外状態の萌芽(あるいは残滓?)が撒き散らされていたことを思い出すことが出来ます。最初のシーンでは鏡から目をそらす時人間は揺らぎます、二つ目のシーンの終わりでバットを振っていた男が床に横たわりその上で別のパフォーマーが演技する時鏡は横たわる男を映し出す事ができません、その後には鏡はもはやなにも映せないことが前提です、人間の境界の揺らぎが表象される時は鏡は常にその手段でした。その事は表象のため手段としての「鏡」そのものが舞台に表象として現れた時にはっきりとわかります。

 このような状態を舞台上に出現させること、観客を演出の中に置き自らの「基底」を疑わしめることは舞台芸術なるものを続ける上での最低限だが必要となる条件だと思います、この後がいかになされるかは私たちの問題でもあるでしょう。(引用は北田暁大『意味への抗い』所収「ヴァルターベンヤミン―反メディア論的省察」p96)。

 そしてその暫定的な答えが、3月に上演された「不死のウイルス」です、明らかに「私的人体」には残っており(むしろ圧倒的にに存在し)、芸術としての意味を保証していた「美しさ」と(表象としての)「統一性」、そして身体を源泉とするような「本質」(それは観客を安心させてしまう)が放棄され、現在までの上演のシーンを断片的にコラージュした、とっちらかった上演が行われてます、しかし、それが方法的転回なそして理念的な転をはっきりと示し、私はそれをとても面白く思いました。その転回の帰結が今回現れるでしょう。そしてもっとも重要なのは人間概念が揺らぐ時とは、人間概念が拡張される時なのです。下記の「ジェントルマン」エントリーはそのような時期が来るまでの歴史を扱っています、敢えて書かなかった1914年以降がそれです。再び、人間概念が揺らいでる現在がこの上演の賭け金となるでしょう。

開かれ―人間と動物

開かれ―人間と動物