彼の個人の感情ゆえに現在の状況にいたったわけではないのだ−お気の毒だがね。彼自身の想像をはるかに上回る次元において彼は道具なのであり、導く手ではないのだ(ヒトラーについてのブレヒトの発言・シアターアーツ4号パトラーカ「現代劇・ファシズム・そしてホロコースト」)

 それは十分わかっているわけだけれど(93年から一環しておかしいといってきたしあの時に政治改革なんぞをもちあげた連中は弁明のひとつも欲しい、基本的にあの時から政治・社会的流れは一貫している)。やはり事態の淡々としたしかし確実な進行には呆然としてしまう。本気で「郵政問題」が最大の問題だと思っている人がまだ(たくさん)いるのには呆然としてしまうけど、ある選挙で解散した当事者が最大の問題はこれだといったら、その人物の意見とまずはとるのが普通では…。それにしてもこの世論操作能力はすさまじい、舞台設定を徹底的に、郵政反対派との対立にだけ絞るやり方は見事(当たり前だが対立候補擁立はその手段)。そもそも、彼の人気の発端はハンセン病訴訟での国の控訴断念を自分の手柄にしたところにあるわけだけれど誰が憶えているだろうか?「障害者自立支援法」はまるでその逆のはずなんだけど…。それを考えずに「小泉の宣伝」をえんえん垂れ流し続けるマスコミもうんざり、だけどネットがそれよりましでは全くないのもよく分かります。まあ、民主党については93年の茶番を体現する党なのだから、何もできないのが当然ですが。


 しかし、歴史の転換点にはこのような人物が現れるんだなという感慨はあります。確かに「変人」ぶりはちょっと度を越している(我々と違った行動原理を持つという意味でマキャベリ以来の近代政治学の盲点にいるわけです、そういう人物を実は組み込んでいるのが実は近代の政治ではあるのだけど)。小泉については昔の「大航海」の佐藤俊樹氏(「00年代の格差ゲーム」所収、今読み直すと実は「嗤ナショ」につながってるな)と北田暁大氏(№41掲載)の文章でかたがつくとたかをくくっていたのだけど…。これほど「御聖断」を続けるための「僥倖」(北田氏)が続くのはやはり小泉がある種の「怪物」なんでしょうね、おそらく将来この国の歴史の「トラウマ」として残るだろうな、まあ日本が存続する可能性そのものが低くしてる人だろうけど(よい意味でも、悪い意味でも)、私は現代において比肩する人物を、エリツィン以外に知りません。しかし、この「僥倖」の継続は恐ろしいな、ここまで来ると偶然ではないのでしょう、どう対抗すべきかということはあまりに見えないですね。私もこの4年間実は「小泉的なもの」に対して目をそむけてきたような、佐藤氏は「小泉的なもの」に特に反対していないようだけれど(反戦後的な思想的傾向という意味なので少し文脈と違うけど)、おそらく私も考え直すべきなんでしょうね、「怪物」といってもはやすむものではないし、「分かること」の無意味さは分かったのですから。